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亀仙人の気功講義 一覧
気功講義 (34)
毛孔竅穴とは何か?
日之本元極功法では、全ての功法を始める前に、「開三門、毛孔竅穴」と意識します。
これは、天門・地門・人門の三門と、毛孔竅穴を開けてから修練を始めるということです。このとき、けして「毛孔竅穴」を「毛穴」と意識したり、説明してはいけません。
厳密に言うと、「毛孔竅穴」は立派に、竅穴です。毛穴ではありません。
人は、毛穴を一つの出入り口として、邪気を排泄するようには、出来ていません。
全身の経脈と繋がって、そこからエネルギーの出し入れをしたり、邪気の排泄をすることが出来るのは、元極功法を学んだ者だけです。
毛穴から汗が噴き出す汗腺と同じように考えて、その延長線上に邪気の排泄口があると思っては大間違いなのです。毛穴と言ってしまえば、単純に考えてしまいがちですが、そこは厳密に考えて、「毛孔竅穴」と正しく表現してください。無形のモノが往来する元極特有の出入り口です。
元極功法にて開発された「毛孔竅穴」は、排泄のみならず、天地万事万物からの先天三元の取り入れ口としても大きな役割を果たします。
具体的に申し上げれば、天からの天陽、地からの地陰、万物からの元音(情報エネルギー)の出入り口として働くのです。
この体表における三元の出入り口、中継地としての竅穴は、全身で約十二万八千個あるといわれます。この膨大な数の竅穴を活性化することが出来れば、個々に潜んでいる偉大な潜在能力を花咲かせることが出来、以後人生の強力な助っ人として働いてくれる事、間違い無しです。
気功講義 (33)
功法と修練段階
日之本元極功法は、大きく分けて12段階の修練段階があります。
「階む」、「階ひと」、「階ふた」「階み」、「階よ」、「階いつ」「階むゆ」、「階なな」、「階や」、「階ここ」、「階たり」、「階う」の12段階です。
世の中の殆どの気功法、功法、方法、手段、ヒーリング等の功力が、この12段階の内、下からの2段階目(「階ひと」)の中位にもとどかない事で、この功法の凄さが判ります。
現在公開されているのは、「階む」から「階み」までの4段階です。
上述の様に、大きく分けて12段階の修練段階がある、日之本元極功法。
その一つ一つの段階の中が、更にまたいくつかの段階に分かれています。
例えば、公開されている「階む」は一段階ですが、「階ひと」は六次元、「階ふた」も六次元、「階み」は九次元に分かれています。この段階を日々の修練の積み重ねと「養徳」によって、上り詰めていきます。
この昇っていける階段の高さは、その人の「徳のレベル」と「修練量」によって自ずから決定されてしまいます。
その12段階に分かれた日之本元極功法の段階は、厳密にパワーの質と量と強さが変化していくように創られています。
よってある段階に達してもいないのに、上の段階の功法をしようものなら痛い目を見ます。痛い目のみならず、危険でもあるのです。指導通りに順を追って修練する事は、自らの為にも厳守すべき重要項目です。
「階む」や「階ひと」の初期段階では、修練量と身についてくる功力はほぼ正比例します。
しかし「階ひと」段階の中盤からは、そこに前述しました「徳」のレベルが徐々に、そして上に昇れば昇るほど、大きく関与するようになってきます。
「徳」は毎日の生活の中で、自らの生活態度を「元極養徳標準」と常に照らし合わせ、少しでも理想に近づくように、修正をしつつ暮らすような心がけが必要です。
その節目となるのが、月に4回ある接功日です。
これは毎月の1、3、13、15日の0時の前後1時間、つまり前日の23時から当日の1時までの2時間の中で、掌門人に繋がって静功をしながら、反省をするという元極功法独特の修練方法です。
「階む」と「階ひと」の功法、合計7段階のやり方を覚えるのはたやすい事なれど、本当にそれらを身に付けマスターする事は並大抵の事ではありません。
事実、現在まで「階ふた」に実質的に進んでいる者は、十名に満たない数しか存在していません。ご自分ではその段階にいると思いこみ、「階み」までの功法を実施している者が結構いるのです。実質的な修練段階が、自らの「徳」レベルと判断すべきです。しかし、なかなか自分のレベルを正確に、そして謙虚に、受け入れられる者は少ないものです。
時として、入門当時から非常に敏感な方がいます。いや、入門前からいろいろ見えたり、聞こえたり、感じたりする方もいらっしゃるものです。
往々にして、本人も一緒に修練している周りの方々も、そうした感受性の高い人の効力が高いと思いがちです。しかし実際は、修練初期における感受性の高さと功力は殆ど関係がありません。寧ろ当初は何も感じないけれども、功法の力を信じて、実直に黙々と修練を続けるタイプの者が永い目で見ると力を着けている気がします。
勿論感じない方が良いのではなく、功力と感受性は関係がないから、特別視しない方がよいといっているのです。
信じて続ける事(信定持以恒)が、功力を上げる最大のコツです。
感受性と関連して、場についてお話しします。三元場の良いところで生活する事は非常に有益な事です。しかし場の良い所に居さえすれば、その場の三元を受け取れるかと言えばそうではありません。修練段階に相応した三元エネルギーしか取り入れる事は出来ないのです。感受性の高い人は、そこの場のエナルギーの強さは判りますが、判るからといって受け取れているとは限らないのです。気のエネルギーですら、そうですから、まして元光や元音にいたってをや・・・・。
元光を取り入れ、生発出来る「階ふた」の段階にいる修練者や、更にその上で元音を操る事が可能な「階み」の修練者の偉大さがわかろうというものです。
では、何故同じ高い三元エネルギーの場に入っても、そのエネルギーを受け取れる人と受け取れない人の違いが出てくるのでしょうか?
通常の修練をしていない人は、体内のエネルギー貯蔵の場として、臓器が充てられています。
臓器の「臓」は、月偏は身体を表し、「蔵」は倉で貯蔵する場所の事を言います。臓器に蓄えられるエネルギー量は自らの身体を育んでいく、保っていくのに必要な量を蓄えておくのみです。
その点、元極功法の修練者は、修練によって「竅穴」という三元エネルギーの貯蔵庫を順番にいくつも造っていく事になります。そして造り上げた貯蔵庫に、これまた修練によってエネルギーを貯めていく事が出来るのです。受け取れる三元エネルギーの量は、各自の貯蔵庫の総量、つまり貯蔵キャパシティの問題だということです。
「腑」の「府」も倉の意味を持ちます。「蔵」は隠して貯蔵するの意味があるのに対して、府は公にして貯蔵するような意味合いを持ちます。「臓」が無形のエネルギーを貯める臓器で、「腑」が主に物質的な倉を意味して名付けられたのだと思われます。
それでは修練を良くして貯蔵庫をいっぱい造れば、三元エネルギーは体内に溜まるのかと言えば、それだけでは叶いません。二つの要件があります。
一つ目、「功法の力と、神仏の存在を信じていること」
二つ目、「その段階に見合った徳があること」
一つ目の「功法の力と、神仏の存在を信じていること」によって、三元エネルギーの体内に入る為の入り口が開かれ、エネルギーは入ることが出来ます。信じていなければ体表で感じることは出来るでしょうが、体内に入ることなく過ぎ去っていきます。貫頂するときなどよく分かります。信じていない人にするときは、体内に入っていかないので、「もったいないなあ」と思いながらすることになります。
二つ目の要件、「その段階に見合った徳があること」
「徳」は、三元エネルギーを竅穴に接着させて貯蔵するような働きを持ちます。
よって、徳の量以上のエネルギーを体内に入れたとしても、竅穴に留めることは出来ません。
体内に入ったエネルギーは、「徳」によって竅穴に留められなければ、本人には判りませんが、またすぐ体外に排泄されてしまいます。入る感覚、出る感覚が同時に起こる為、本人はものすごいエネルギーが入ってきたと錯覚することが多いものです。
外から見ると、エネルギーが留まっていないのはわかるのに、本人は膨大なエネルギーを取り込んでいるように錯覚しているというのが、「徳」のない者の悲劇と言えます。
それではその養徳について少しお話ししてみましょう。
功力や特殊な力の伝承は、師から弟子へ、弟子からその又弟子へと脈脈と伝えられてきています。これは神界でも同様です。神々の力は、その下の次元から上がってくる神々へと渡されていて、自分が上の次元に上がれば上にいる神々から相応の力を渡されるような仕組みです。この宇宙では上下関係は絶対のものであるといえます。
上下・師弟関係を破ることなどは、その伝達経路を断ち切ることになり、功法の伝達を一番阻害するものです。養徳標準の中でも「尊師重道」に一番重きが置かれるのは、そういった理由からです。
次に大切なことは、私と公の「情」についてです。
牛痘を我が子に接種したジェンナーは、その病を克服できるようになるまで、周りからの迫害やいろいろの困難を乗り越えた上、息子などにその効果を試すことをした訳です。
これは美談と取られがちですが、大きな問題を含んでいます。世界中の多くの人々は、自分の家族と他人を秤にかければ、ほとんど家族を取るでしょう。しかし本当の「情」とは、そうした「私情」を断ち切る所から始まります。親子の情、夫婦の情、兄弟の情などを乗り越え、すべての人間を平等に見て、社会に貢献できるかが本当の「情」の重みなのです。
ジェンナーの魂は4次元、顕在意識は5次元の座に位置します。
この「情」を乗り越えることは、養徳の上で大きなハードルです。
そういった意味では通常のボランティアは、自らの位置を確保した上でのことですから、人々が考えているより養徳上の評価は高くはありません。
この「情」を乗り越え、本当の徳積をして戴きたいものです。
気功講義(32)
正常眼圧性緑内障
近年、緑内障の罹患率が上がっています。特に正常眼圧性緑内障の比率がとても大きく変化してきています。失明にまで至ってしまい、医学的にはお手上げ状態のこの病気にどう対処したらよいのでしょうか?
まず、この病気について大まかに現状を新聞記事より把握してみましょう。
2008/03/16 朝日新聞(朝)医療記事より
緑内障
視神経が感知した光は、視神経乳頭で束になり、脳に通じる。眼圧によって視神経乳頭がへこみ、徐々に視神経が機能しなくなり、視野が欠けるのが緑内障だ。眼圧は毛様体で作られた房水が、排水溝である偶角(ぐうかく)へ流れて保たれる。偶角がふさがって眼圧が高くなる。「閉塞隅角緑内障」、偶角はふさがっていないが房水の流れが悪い「開放隅角緑内障」がある。
「正常眼圧緑内障」は房水が流れ眼圧も正常だが、視神経乳頭が圧迫を受ける。
しかし、40才過ぎたら要検査
緑内障はこれまで、眼圧が異常に高い為に視神経乳頭が圧迫されて起きる病気とされていた。
日本緑内障学会の調査によると、日本人の緑内障患者の約7割が眼圧は正常(10~21ミリ水銀柱)なのに発症していた。「正常眼圧緑内障」と呼ばれる。
原因は明らかでないが、眼圧に対する視神経乳頭の強さには個人差が大きく、正常範囲内であってもその人の視神経にとっては圧力が高すぎ、へこみが出来ると考えられている。
学会によると緑内障患者は40才以上の人の5%、約350万人いるとの試算があり、9割近い人が病気に気付かずにいる。家族に緑内障の患者がいる人や、強い近視の人は緑内障になる可能性が高く、特に注意して検査を受ける必要がある。
偶角から排水される眼房水は、正常に排水されるけれども、その中に含まれている邪気のような排泄物が、排泄されないために、眼房水の中にいわゆる汚れたモノが、溜まっている人がいます。
それは、眼圧が正常なのにもかかわらず、毛様体の機能をクリアにしていく全体の柔らかさが失われているために、新陳代謝がうまくいっていないわけです。
邪気がフィルターを詰まらせて、水分だけが排泄できるけれども、剥がれ落ちた細胞などが、上手く外に出されません。また邪気といわれる無形の悪いモノが滞積し、見た目の眼圧は正常でも、中の組織の堅さは増していくということがあります。その堅さが増すために、乳頭がへこむ条件ができます。
ですから眼圧のとらえ方が、現在の医学常識は現実とは全く違うわけです。
前述のように、眼圧が高くなりやすい人は、遺伝的に毛様体の中の組織が、新陳代謝していくそのメカニズムが悪くて、いつまでも古い組織が残存して、固くなってはがれるという特質があります。大きくなってはがれるために、眼房水の出口をふさいで、しまうことになります。元々の遺伝的な体質と言えば体質ですが、最近の光を見つめる頻度が高すぎるために、目の中の老化が進行しやすい条件がそろうために、発病しやすい傾向にはあります、
パソコン、携帯、テレビの普及にともなって、画面などの明るいモノを見続けるという作業が増えています。これらのことが邪気を含んだ眼房水の排泄を悪くさせ、眼球そのものが固くなる事は否めない事実です。
しかも、発達途上にある子供達から、そのことが起きているので、非常に視力の衰退は、問題視されるところです。
予防のためには、長時間見つめ続ける作業をしないことは、肝要です。
治療のためには、邪気を排水することを加速させて、眼球そのモノをエネルギーで満たして、柔らかくすらならば、進行を抑制できますし、治療もある程度可能です。
視野の回復はしない。緑内障は治らない。と、医学的には説明していますが、本当に回復は難しいのでしょうか???
乳頭の変形の度合いにも寄りますが、時間をかけて徐々に変質が確実になったモノについては、回復が難しいモノもあります。しかし、その変質の様子が、まだ可逆的に柔らかさを取り戻す可能性を残しているとすれば、ある程度の回復は見込めます。それは乳頭を押さえる、圧迫する条件が無くなるから、或いは変質する原因が無形で排出されるから、回復するのです。現代医学では、その条件を外すことができないので、回復が不可能な訳です。
なぜ、眼房水だけが出て、そこから不要な物が排出されないのかというと、フィルターが目詰まりをおこすからという簡単な理由です。分かり易く言えば、とくに剥がれ落ちる細胞の組織が硬くなっているので大きくなります。これによって、排出がされないということです。
また無形の邪気についても、それを押し出す力が不足していると言えるでしょう。無形の三元エネルギーや邪気を流す脈が存在します。そもそも、この脈が、新陳代謝で悪いモノを吐き出しているという考えは、医学的には考えられていません。
常に新陳代謝が行われて、無形有形に関わらず排泄がなされています。汚れは溶けて出る程度の汚れとして眼に見えない程度のモノとして、排泄されています。しかし、そのフィルターさえ通さないような、老化した大きな細胞の排泄ができなくなります。
前述の排出できないモノは、物と捕らえると難しいと思います。無形のモノと捕らえた方が、理解が早いでしょう。
邪気が無形のモノだとしたら、どうして排泄口からフイルタを通らずに詰まらせてしまうのでしょうか?
それは無形のモノではありますが、無形のものでも大きさはあります。強さ、大きさ、圧力、流れ、方向、粒子の細かさ、無形のモノにもそういう性質は、あるのです。
偶角にあるフィルターというのは、中の悪いモノを外には出すけれども、外からのモノは、中に入れないというような、形をしたフィルターです。その存在がなければ、排泄口ではなく、邪気が双方向に運ばれてしまいます。排泄する役割を果たすためにフィルターが設置されています。
眼圧というような圧力だけではなく、我々が感じているような気の強い圧力、流れ、邪気の圧力が、内部で強まるというようなことが内部で起きているのです。
われわれは、無形のモノをもっと大切に、しなければいけないと思っています。眼に見える物質だけではなく、物質を養っている気のエネルギーがあります。形を作っている気のエネルギーがあります。物質で形が作られているばかりではなく、その物質を形つくる気のエネルギーがそこに充満しています。
細胞が新陳代謝を繰り返すというのは、物質が剥がれ落ちて細胞そのものが新しくなるのです。
気の流れる脈は、眼底を中心として目の中に、存在します。
眼底の乳頭を中央に置くような形で、渦巻いています。右目の渦は、右回りに回り、真正面にみて、乳頭を中心にして右回りで回り、左は、同じように乳頭を中心にして、左回りに回ります。
左回りに回るのは、平面的な流れではありません。
眼球の球体の沿って、回っています。
エネルギーのめぐり方が、左右で違っています。
眼球の底から、エネルギーがめぐり、そこから前に出て行く形で、エネルギーが螺旋状に運ばれて、眼房水が偶角から物質的な水と出てくるのと同様、気の流れる脈を通じて、エネルギーも物質的な邪気も排泄されます。
そもそも、眼球のなかも、無形の気で覆われています。
眼球そのモノだけではなく、すべての骨、内臓、発達するもの、動くモノは、無形の気で内部からも、外側からも満たされています。その無形の気の働きは、細やかに細胞を保っていたり、高いエネルギーの水を持っていて洗い流す、つまり邪気を洗い流すような成分を持っていたり、それは様々な、解析されないようなエネルギーで満たされています。それらは、いまだに医学的な日の目を見ていません。
それらの気のエネルギーの不調和が起きると、物質的な不調和に発展していくわけです。
それらのことを物質的な不調和だけで、説明をしていこうとすると理論的な問題が起きてきます。問題の発生源は、眼に見えないところの三元エネルギーとその動きにあります。
三元エネルギーそのものも遺伝的な操作で組み替えられていきます。構造についても全く同じです。ムケイのエネルギーが身体を取り巻いて、操作して、働いている。そのことを理解しなければ、有形のモノだけで証明していこうとすると大きな間違いがおきます。いや、起こしています。
有形のもの、現在そのことだけで、説明をしようとすると帰って誤解や間違いや、歪曲が起きますから、気をつけたいところです。
細胞の一つ一つが三元のエネルギーで満たされて構成されています。その小さな細胞の一つ一つの三元エネルギーと、一個の物質、一個の臓器の集合体が、元音の働きを得て、一つの構造体として、任されます。もちろん、そのためには、三元エネルギーが欠かせません。物質が存在するには、三元エネルギーが関わっていることを理解しなくてはいけません。
眼に見えることだけで、理解しようとすることは土台無理なことなのです。そうすることが、誤りの根本原因になります。全ての事柄を有形のモノ、物質的なモノ、化学反応の現象的なものの結果で判断するところに、現代科学、医学の限定された結果が生まれています。
それは、真理のひとかけらです。
そのひとかけらのために、時間を使うべきではありません。それぞれの病気の回復のために、説明も必要なわけですが、それは無用なことに、今後はなってきます。
ひたすら光を失う時を待つだけでなく、日之本元極功法を実践することで、視力の改善を錬功という努力で自らもたらすべきです。
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気功講義(31)
伝統の功法を受け入れるということ(内景図の訂正)
「階ひと」中級講座の「内景図」の説明の中で教科書(070520の版)
1)5頁図3の赤左殿に位置する「水」と、白右殿に位置する「火」が逆となります。
2)その説明文となる、6頁6行目「火」が「水」に、12行目の「水」が「火」に訂正されます。
お手数ですが、訂正をお願いいたします。
この教科書を書き上げ、公表する前に良いかどうかを掌門人達に確認した時、普善禅師より「火と水の位置が逆だから訂正しなさい。」とのお話しがあり、今の教科書の様に訂正して公表しました。
その時何故なのかの説明もありませんでした。理論的に納得出来ないことでしたが、先人の積み上げたことですから、言われる通りに直して公表した訳です。
今回、この教科書を手直しする際に、普善禅師より次の様にお話しがあって、再訂正をします。
『普善禅師より
「火」と「水」が反対になって、また再び訂正される時がきました。
理由は簡単です。
間違いを訂正するときが来たからです。「火」と「水」だけが、逆転しています。それは、自然なことですから、問題はありません。間違いを訂正する必要がありました。
日之本元極の功法に責任を持つ神として、伝えます。
功法の真意について、元極の功法が800年の歴史の上に上積みされてきた功法であることを明確にしなければなりません。伝統的な功法を否定するものであってはならない。全てを肯定して受け入れて、さらに発展させるということが必要です。
肯定的な理解の上に、発展があり、刷新があります。否定をする上に、発展はありません。功法は受け継がれ、刷新される。それは、自然科学の発展の原則です。
そのことについての基本を増田に伝えました。
今までの導きについては、一点差し違えた箇所がありました。それを今修正することが必要です。修正することで、日之本の功法がさらに発展するきっかけを作ることになります。これは、仕掛けられた罠です。』
何故こんな紛らわしいことをなさったのか?これには訳があります。こうした伝統的なものを引き継ぐ時、受ける者は絶対どんなことであっても先人を否定してはいけないという掟の様なものがあるからです。間違っていようが、無理難題であろうが、
「師の言うことは全て受け入れる」
こうしたことが、何千年もの長い間守られてきたことです。これが出来ない者は宇宙の法則から外れる者です。中国の神仙伝などを読むと繰り返しこのような話が出てきます。常に弟子がその掟を守ることが出来るのか、度々試されます。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(30)
「東・西・南・北」と「右・左」、そして「陰・陽」
「東・西・南・北」と「右・左」、そして「陰・陽」(3) 080213
「位山」と「ひだ」、この地は特別な所のようです。
大方の神社で、六月末日と大晦日に奏上される大祓祝詞という祝詞があります。非常に長い祝詞ですが、神道の中では、一番と言って良いほど大切な祝詞として扱われているそうです。その内容が良く判らないまま、そして伝えられる内に多くの間違いも生まれて、伝承され、奏上されてきているようです。その中に、
「・・・如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と 大(おお)日本(やまと)日高見(ひだかみ)の国(くに)を
安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて・・・・ 」
という件(くだり)があります。これを殆どの国文学者や、神道学者、神主さん達は「大和」の「日高見の国」と解釈しているようです。しかし本当は、
「・・・如此依(かくよ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の国中(くになか)と 大(おお)日本(やまと)『ひだ』、『神』の国(かみのくに)を
安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて・・・・」
と読ませるのが正解なのです。元の祝詞が平仮名であるもの(響きを平仮名に移した)を、無理矢理漢字を当てたが為の間違いと言えます。
旧飛騨にあたる高山市、飛騨市等の地域には 、異常なほどに神社が存在し、現在404社 (飛騨神職会発行「飛騨の神社」より)も残っています。これでも昔に比べ、合祀(ごうし)した神社がかなりあり、減っていてこの数です。
私は以前、関東のある市に住んでいましたが、市内にある神社は10社に満たない数 だったと思います。
「ひだ」の土地が、如何に神々と繋がりの深い土地かということが、良く判る数字ではないかと思います。暖かくなってから今年の特別講座には、気の場の良い飛騨の神社数社を巡ったり、特に選定した「場の良い所」に皆さんをお連れする企画をしてみたいと思っております。乞う、ご期待!!
日之本元極 亀仙人
「東・西・南・北」と「右・左」、そして「陰・陽」(2) 080212
「火」は垂直に立ちのぼります。その様を「火(ひ)の垂(た)り」と言い、「ひだり」に 変わっていったのです。「水」の水平線は、「水(み)の極(き)り(極とは2点間をピーンと張った状態を示す)」と言って、「みぎり」に 変化したものです。
東
一
日
ひだ・北・左・火 位山 水・右・南・みの
月
二
西
位山から東を望み、「ひだり」は「ひだ」 です。「みぎり」なる「水(み)の極(き)り」に当たる地は、「みの」 と呼ばれています。
「ひのたり」の方角に「ひた」があり、方向も「ひた」では混同するので、いつしか方角の呼び名は「きた」 に変化したようです。よって「ひだ」という地名は、平仮名であって、現在使われている「飛(と)んだり、騨(は)ねたり」の「飛騨」ではない のです。少し前まで使っていた「斐太(ひだ)(文に非ず、言が太い、素晴らしい)」という漢字には、「言霊幸(さき)はう」の意味を持っていることから、響きでこれらのことが実現したことを良く表している と思います。
「水(み)の極(き)り」つまり水面には波が立ちます。「水(み)の極(き)り」から「水(み)の波(なみ)」そして「みなみ」へと変化しました 。
この「きた」と「みなみ」の「き」「み」は、陽と陰を 表しています。「いざなき」「いざなみ」の最後の「き」「み」のように、男と女、陽と陰を示している のです。
これが「東・西・南・北」と、「右・左」という言葉の起源です。
日之本元極 亀仙人
「東・西・南・北」と「右・左」、そして「陰・陽」(1) 0211
年に数回行っている特別講座の中で、今まで3回ほど高山市一之宮町にある位山(くらいやま )に登りました。位山は霊山として知られ、「すの神」 が地球を創られるとき、ここを最初の地とお決めになり創造されたとも聞いています。場を感じられる方には、その素晴らしさが判って戴けるものと企画したものです。
位山には、中腹にあるモンデウス・スキー場の直ぐ横に、「祭壇岩」 という平らな舞台のような巨石があります。古代から神を祭るときに使われた祭壇といわれています。また頂上より少し下った所には「天の岩戸」 と呼ばれる岩倉が存在します。車で上れる「だな林道」の終点から頂上まで、登山道の両脇には巨石群といわれている大きな岩がごろごろと配置されているかのごとく繋がっています。
地球で最初に出来た位山に、「すの神」 を始め、多くの神々が初めて地球という地に降臨されたと伝えられているのです。
その位山から日の出を望むとお考え下さい。当然の事ながら、前は東、後ろは西です。左が北で、右は南になります。この東、西、南、北という方角を指す言葉は、どこから来ているのでしょうか?
前は日(一(ひ)) です。そうすると後ろは月(二(つぎ)) なのです。まず「一(ひ)向(む)かし」 、これが「ひむがし」 、「ひんがし」 、「ひがし」 と変遷したものと考えられます。
東
一
日
北・左・火 位山 水・右・南
月
二
西
後ろに月を背負い、「二(つぎ)」で、「二(に)し」 となります。
神々は「日」に向かい、「月」を負い、左に「火」を従え、右に「水」を連れ添います。この時やはり「右」「左」という言葉が発生しました。 (つづく)
日之本元極 亀仙人
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ほとけ、ほっとけ、ほとけの身の上、ほとけの上にあるのは、むしろ です。
むしろに座って、修行を終えたモノが、ほとけの身の上になり、先に進めます。
ほとけである者達が、全て先に進めるのでは、ありません。
ほとけの身の上とは、ほとけのうえにむしろがあり、むしろで修行ができたものが、身の上となり、進み上がって行ける、という仕組みです。
人から受けた功罪を、すべて無(む)にして、白(しろ)紙に出来るかどうか。それが、ほとけの修行です。むしろの上で、無に出来たモノだけが、先に進めるのです。
ほとけは、人の功罪を受けて、ほとけになった者達です。
人から受けた功罪を無にせず、根 を持ってはいけません。「ね」を持つと、「ね」は蔓延(はびこ)って、「は」が腐ってしまいます。「は」とは、人生という修行をして、先に進もうとしている我々のこの世界のことを言います。
この世界で、我々は自分の過去世も含めて、自らの「功罪」の借金返済をしています。どうしたら借金を返すことができるか?
1.人のために働く。
2.自らが自然に病気、生活苦などの運命によって苦しむ。
3.人からの攻撃に対し反撃をせず、「無」にし、「白紙」にすることによって、攻撃する人に「借金」を肩代わりしてもらう。
人から攻められたりしたら、「ありがたい」と思い、感謝することです。 そして人のために自分をどう活かすかを考えて生活し、修練することです。目では見ることが出来ないにもかかわらず、信じて下さる方々に、必ず元極の力は効果を発揮することができます。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(28)
天目と特異効能について
天目と特異効能について(6) 080205
他功法も含めて、巷で「吾は小周天 を貫通した。」とか、「小周天 は数ヶ月で貫通可能です。」と言う方々もみえますが、それらの実際は意念上や表皮を通しただけに過ぎないのです。それらの関門突破は、功力、念力、功徳に直接関わり、功と徳の聚積によって可能だということを常に頭に置いて、修練をしなければなりません。
現在、日之本元極功法では、「もとつきわみ図」理論に則り、(八層)X(十二層)=(九十六層)のルートに深く入っていくようになっています。上丹田(玄関)の奥に第三の眼と言われる天目 が存在しますが、修練は有形の玄関 から出発し、幾層もの玄関を中心とする効能の発展体系を形成しています。その玄関 の内視は、修練段階が高次元に為るに従い、表皮層から深部へと入っていくことになります。しかしこの修練の発展的変化は、修練の自然の結果であって、自らの想念にて推し進めるものではないという点が重要な注意点です。
己の修練の進度を上げる為に上記のような方法をとることは、肉体、精神の双方に復帰不能な重大なる瑕疵(かし)を残すことになります。
この小周天 及び、玄関 の深まりが、四センチほどの奥に達すると、頭上から鉄槌を打たれ、そこに同時に雷風電火吹き荒れるような状態になります。玄関 は飛躍的な変化を顕し、有形から無形の功能へと質的変化を起こします。功能は、それまでの有形的限界を突破し、無形の境界に突入していくようになります。
日之本元極 亀仙人
天目と特異効能について(5) 080204
「階む」や「階ひと」の段階で、上丹田の位置を感じてみると、ほぼ表皮にあると感じることでしょう。しかし修練の年期を積み重ねていくと、その位置は効力の上昇と共にだんだんと中に入っていきます。そのことは上丹田のみでなく任脈及び督脈の通路自体も中に入っていくのです。
古人は、小周天(任脈と督脈を通じさせること)を貫通すると地仙(仙人の一段階)の次元に入り、過去、未来のことに通暁出来るとしていました。肉体上・小周天ルートには、尾閭関、命門、夾脊関、玉枕関 といくつかの関門が存在します。この関門突破は容易なことではありません。古来「衝関」と言い、激痛を伴う大きな修練上の障壁とされてきました。
公開前の功法では、修練者が師より貫頂を受けるのは一生で一・二度で、自らの修練のみで貫通をしていかねば為りませんでした。しかし現在では、修練者の多くは望めば幾度でも受けることが可能です。その貫頂によって、任・督・中脈の貫通を促進してもらえます。
元極図理論に則る中国元極学功法では、この一つ一つの関門に九つの階層があって、皮、毛、肉、骨、髄と順次に深く入っていく としています。
元極秘籙の中に 「九龍噴水紛紛洒(きゅうりゅうふんすいふんふんさい)」 とありますが、「九龍」とは、九つの竅穴を指すのと同時に、各竅穴が九層になっていることをも顕しています。そしてこの九層の一層ずつが更に九層に分かれていて、9 X 9=81層を全て貫通してこそ完全なる小周天の貫通になる の です。
(つづく)
日之本元極 亀仙人
天目と特異効能について(4)
中国の奥に眠っている密教の一派に次のようなことをする所があると聞いたことがあります。
修練を志し、ある段階に達したとき、額の上丹田に当たる所を切り開き、頭蓋骨に数ミリ経の穴を開けます。そこにその穴に入る位の長さ数センチの棒を静かに挿入し、縫い合わせます。ある期間その状態で過ごし、再度そこを切開し、棒を抜き去るというものです。また表面は縫合しますが、額の内部は天目に向かって細い空洞が出来る訳です。
本当にそんなことが行われているのかどうか定かではありませんが、ありそうな話です。
この目的は何かといえば、言わずと知れた「天目」の能力開発 にあります。この長い期間と二度の手術によって、天目への外界からの情報を確かに伝達しようとしているのでしょう。
こんな空恐ろしいことをしなくても、元極功法には「貫頂開天目」 と云う秘術があり、それで簡単に、しかし途方もない力をお渡ししているのです。
その後の修練によって、特異効能はその人の特長を生かして、発揮されていくことになります。
ここひと月、ふた月の間にでも私の耳に入った中で、「さとりの法」を受講して本当に魂の声 が聞こえだしたとか、「さとりののりしろ」受講後にシンクロニシティ がホントに起きているとか、「僻穀(へきこく :食事をほとんど取らなくとも肉体を維持していけるようになること)」が始まった等という声がいくつもと寄せられています。
日之本元極 亀仙人
天目と特異効能について(3)
以前日之本元極に小学校一年生の子が、お母さんと頻繁に通っていたことがありました。最初は風邪をひいたからとか、気持ちが悪くてもどすとかで連れられてきて貫頂を受けましたが、2,3度受けた後から、いろいろな物が見えるようになりました。
人のオーラ とか、頭上の金線 (その人のエネルギーレベルや、徳の高さによって頭上から天に向かって延びる線。色、太さ、本数、長さでその人の状態が判る。)が見えるようになったり、神社に行けばそこの神様が見えたり、話せたり出来る ようになりました。
私はその子に「見えたり、聞いたりしたことは、お父さん・お母さんと、日之本に来たときしか話してはだめだよ」と、またご両親には「普通に育てなさい。特異効能を珍しがって、ちやほやするとこの子をだめにしてしまうから・・・。」と強く忠告しておいたのですが、子はともかく、親がこの忠告を聞きませんでした。「OOちゃん、誰それはどう?」とか云うように頻繁にその子にいろいろ聞き始め、だんだん子供も性格が変わりつつあるように見受けられました。
ある時ちょっとした問題があったので、それをきっかけにして「もう、天目を閉めます。 」と親に宣言をして閉じてしまいました。それからその子はそれまでいろいろ見えたものが見えなくなったのは当然ですが、その一家は日之本に来ることがなくなってしまいました。でも、その子にとっては長い目で見れば良いことだったと思っています。
昔スプーン曲げがはやった頃、テレビで「超能力を持った子」等とちやほやされた子供が大人になって麻薬などで逮捕されたこともありましたから・・・。
日之本元極 亀仙人
天目と特異効能について(2)
張志祥先生の一番弟子に、余開記先生 という方がいらっしゃいます。この方は伝え聞いた話ですが、全中国の公務員試験とかで一位か二位を取ったという秀才です。中国元極学研究会の書記局長をなさっていました。大変徳のある方で、功力も凄いものをお持ちです。
その中でも予知能力がとても大きく、ことあるごとにいろいろな人から、これを見てくれあれを見てくれと依頼があり、相談にのっていました。
あまりに先のことばかり見てい たので、あるとき張先生から
「お前はあまりに先を見すぎるから、暫く天目を閉じる。」
と言われ、一年ほど何も見えなくなってしまったと云うことです。もちろん現在はまた張先生に天目を開けていただき、大きな功力を人の為に使っていらっしゃいます。
私が最初に余先生とお会いしたとき(元極を初めて3ヶ月目でした)、3メートルほど離れ机を隔ててお話を伺っていたのですが、下丹田にズーンと入ってくる強烈なパワーを感じ、「何なんだ、この人は・・・?」と思ったものでした。
日之本元極 亀仙人
天目と特異効能について(1) 080128
「貫頂(かんちよう) 」と通常言っている行為は、正式には 「貫頂開天目(かいてんもく)」 と言います。それは頭頂と中丹田、命門から元気エネルギーを流入させることと、もうひとつ眉間の上丹田より、元光という不可視光線エネルギーを入れ、その奥にある天目を開けることをするからです。この天目が開くことによって、その後の修練(気功の練習をすること)によって、その人の潜在能力が開発されます。
赤子の時は、ほとんどの人の天目は開いていますが、成育していく過程で次々に閉じていってしまいます。私の見た感じでは、成人する頃には百人に一人位しか開いている方はいないのではないでしょうか。育つ過程で、子供の潜在能力は親の常識で押さえ込まれてしまい、使わなくなるので閉じてしまうようです。
元極功法では、天目を開き、修練を積み重ね、徳を積んだ者にいろいろな能力を、師が伝授していきます。 渡されたとたん途轍もない能力が備わって、行使可能になります。
授けた力ですから、当然消し去ることも、師にとっては自由自在です。道を外れた者や、功法から離れた者、徳の積めない者からは、功力を剥奪することも希ではありません。
「尊師重道」と云う掟が、古来より生きて伝えられています。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(27)
フーディア
アフリカの乾燥した大地が育てた フーディア についてお話ししましょう。
この植物は、最近ダイエットに効果があるということで脚光を浴びています。そして希少価値から、お値段も結構張る物となっているようです。
フーディアの持っている特徴は、特別に珍しいと言うに当たりません。アフリカの乾燥した大地に育った植物には、それらと同じような性質の物質を多かれ少なかれ持っています。フーディアは、特徴的に多いという性質があるというだけです。
これらの植物は、動物に好んで食べられることによって、その種が拡がっていくという性質を持ちますから、動物にとって非常に腹持ちが良いという特性を備えることで、引き続き定期的に食べてもらえるという「循環させる特性」を持っているのです。植物と動物の関係によって、その特徴が創られたということに過ぎません。
ががいもの仲間ですが、より食べやすく目に付きやすい形ということで、地下に存在せず、食べやすく地上に存在するのが特徴です。地上に顔を出した状態で存在しています。乾燥して食物が不足し、なにも食べるものが無いところに住む動物たちの恰好の食材となるように、植物の特性が創られました。
つまりは、この植物を食べると腹持ちがよい感覚がするということです。
血糖値を下げないで一定に保つような、そういう働きをします。しかし感覚的に腹持ちがよいという状態がおきるだけで、身体の中の脂肪を使ってエネルギーに、転換させていくことについては、物事は普遍的に変わりません。血糖値が下がらないので、常に満腹感があるということです。つまりは脂肪を能率良く提供していく能力が高いのです。皮下に貯めずに、血液の中の血糖にして供給して出していくことに優れています。
それでは、フーデイアは内臓脂肪に対してはどう作用するのでしょうか?
内臓脂肪は、病的に付いた脂肪でなければ、消費されることとなります。皮下脂肪と同じように内臓脂肪も消費されることとなります。優先されて消費されるのは、比較的後から付いた内臓脂肪ですから、内臓の脂肪が減る事実はあります。
しかし、病的に付いた脂肪。つまり内臓の機能が衰えて、内臓に染みついたように増えている脂肪、組織の中に入り込んでいる脂肪や、遺伝的な体質があって、先天的に常時脂肪を取り込んでついたような内臓脂肪については、フーデイアで減らすことは出来ません。
内臓の機能の低下によって、脂肪が付いた物や病的な原因によって内臓に脂肪がついた以外の内臓脂肪については、皮下脂肪と同じように消費されることになります。
つまりメタボリックシンドローム対策としては、予防としてある程度効果的ではあるものの、既に病気的になった内臓脂肪には効果がないということです。
もちろんこの作用を、ダイエット効果があるといえばそうですが、そういう使い方が好ましいとは思えません。つまりは乾燥した大地が、空腹に耐える動物にとって役立つ食物として育ててくれた「恵み」なわけです。植物と動物の相関関係の結果の植物ですから、この原理をダイエットに応用するのは危険です。効果はありますが、危険なことです。
空腹感と満腹感が相互に訪れて幸福感を得ることが食物の興味関心であり、喜びもあるのですから、むやみに操作することは、よくありません。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(26)
人は、食べずに生存可能か?
快食、快眠、快便というのは、人の求めている快楽の摂理です。これらのことが上手くいくことが健康の元であるという錯覚も起きてくるところです。
人は常識にとらわれて、その常識の中で生きている生き物です。そして集団の中の多くの者達が同じ行動をすることが常識であり、それが自分にとっても良いと思うという錯覚です。烏合の衆の中で生きていくことは、安心感があります。その安心感が集団の中への所属性向を強めています。
そのことが文化の発達、人を収めるという生活の生業に、必要なことではありました。このことによる発展が、今の社会です。社会の中の安定は、人と同じことを繰り返すという感覚の中で生まれています。人それぞれが異なることを好み、違うことをしては、まとまりが付かないのです。
しかし 物事の斬新な発想は、ひとたび今の常識的な行動を止めて、その中身の奥深さを感じてみることに重要なことがあります 。食べ物についても同じことです。
すでに、日之本元極が功法の中で説(と)いているように、肉食や動物性のタンパク質というのは、人の身体に適合しないばかりではなく、修練を積んでる人にとっては、必要が無くなってくるという食品です。その食品を身体に取り入れる場合には、肉の波動を身体に適合させて、入れなければならないというような能力の必要性も出てきます。
食べ物が、必要であるかないかということを考えたとき、食べる楽しみを失ってはいけません。現在のテレビ放送各社が煽っているような、食事の欲ばかりを追求することはありません。しかし多くの歴史が示しているように、大勢の者が集まり、同じ物を食べる。語らいをして、心を一つにしていく催しは、必要なことです。人が気持ちを通じ合い、気持ちを一つにしていくためにも必要なことです。
古来「直会(なおらい)」という方法をとって、神と人が話し合い、感じ合ってきたのも道理な訳です。
そうするならば、ものを食べない。という事柄を目的に掲げるのではなく、結果的に食べなくてもすむ。食べずとも生存することは可能であるという考え方を取った方が、より自然です。日之本元極の功法をもってするならば、それらのことが可能であるのです。
「人は、食べずに生きることが可能か?」
という問いに答えるならば、それは十分に可能であると断言出来ます。
不食(食事をしなくて良いこと)は「目的」ではなく「結果」です。
何人かの上級修練者では、もう既に実感していると思いますが、肉体は食べなくても滅びることはありません。「階ふた」以上の方法を実践できる者であるならば、それは天地のエネルギー、地と太陽、月、自然のエネルギーを受け取って、身体に定着することが可能ですから、物理的には何ら食べなくても飲まなくとも、無形のモノで補っていけるのです。
しかし重ねて申し上げますが、食べる楽しみを自ら封印することはありません。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(25)
緑茶は脳梗塞や心筋梗塞の発生を防ぐか
中日新聞 070505朝刊に
「緑茶は脳梗塞を防ぐ。一日5杯以上飲むものは、脳梗塞や心筋梗塞の発症が少ない傾向にある。」
という記事がありました。
脳梗塞や心筋梗塞は、血管が老化して起きる循環障害です。
その原因は、血管の問題と動脈硬化を起こしやすい食事の問題 とがあります。食事で取り入れられる成分の中でも特に脂肪は、一定量を超えた場合、悪しき原因となります。
緑茶を飲む者達の食生活には、特徴があるのです。緑茶を飲む習慣のある者は、和食が中心で肉食が少ない傾向にあるでしょう。そういう食生活習慣の土壌の上に調査が行われていることも無視できない要素です。
緑茶があたかも効果が、あるというように結論づけるのは早急 です。
しかし、緑茶には、ビタミンCやビタミンA、カロチンなど皮膚の抵抗性を保つような物質が、生きた形で保存される特徴があります。ですから、生きた形でビタミンが壊れることなく吸収されやすい形で、身体に取り込まれます。
特に食事の時に取られる飲食物は、身体が取り込みやすい体制を取りますから、食事と一緒に食べる飲み物の成分は効率よく摂取されることになります。
健康飲料という形で、大量の飲料を飲んでも、身体の体制が栄養分を吸収するには、充分でないこともあります。身体が水分を要求しているときには、優先的に水分を取り込みますが、食事の時以外には、吸収の度合い が変化して吸収を効率よくするという形態が取りにくいので、食事の時に摂取する飲み物である事は効果をより上げている一因です。 …
日之本元極 亀仙人
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気功講義(24)
頭の良くなる食物の栄養について
「もとつきわみの水と塩」で脳を活性化
昨年末に、以下のような新聞記事に目がとまりました。
愛知県特産の八丁味噌を食べると頭が良くなる と言うのです。
「八丁みそで頭よくなる」名古屋市大大学院教授らマウス実験
(2007年12月30日中日朝刊)
愛知県岡崎市に伝わり、独自の製法で知られる八丁みそに、脳の学習能力を向上させる効果があることを、名古屋市立大大学院の岡嶋研二教授、原田直明准教授らのグループが、マウスの実験で突き止めた。岡嶋教授は「この地方が戦国時代に三英傑を生み、岡崎出身の徳川家康は天下を治めたのも、八丁みそと関係があるのかもしれない。ぼけ防止の効果も期待できる」と話している。
岡嶋教授らは、5匹ずつのマウスに八丁みそと普通の豆みそ、みそ以外のえさを4週間食べさせた。その後、それぞれのマウスを直径120センチの円形プールの中で泳がせ、直径10センチの丸い台を探して到達するまでの時間を計測。その結果、豆みそと普通のえさを食べたマウスに比べ、八丁みそを食べたマウスの到達スピードは3日目以降急激にアップし続け、目的の台を探し出す学習能力が向上していることが分かった。
脳の学習能力をつかさどる海馬の神経細胞を活性化させるタンパク質「インスリン様成長因子-1」(IGF-1)の濃度をはかると、八丁みそを食べたマウスの方が、豆みそや普通のえさを食べたマウスに比べて1・8倍に増加していることが分かった。
知覚神経が刺激を受けると、神経末端からアミノ酸の複合体「CGRP」が放出され、CGRPが若い細胞に働きかけIGF-1の生成を促進するというメカニズムが分かっている。
豆みそと八丁みその製法は発酵まで同じだが、八丁みそはその後、約2年半、石積みしたたるの中で熟成させる。岡嶋教授は「熟成期間にIGF-1生成を促進させる何らかの成分ができているはずだ」とみて、成分の特定を急いでいる。
八丁味噌をたべたネズミは、学習効果が高いという新聞記事に関連し、 食物の栄養素が脳に利用されること についてお話しします。
この新聞に出ている事柄は、一面的には事実です 。
食べることで功利的に脳の活性化を図ることが出来るような物質は、この八丁味噌のみならず他にもたくさんあります。
さすがにセンセーショナルなことだと騒いでしまいがちです。
この記事に書かれていることは嘘ではありません。味噌の熟成期間によって波動が細かくなり、タンパク質の一部分が、からだにとって吸収しやすいような波動の細かさに変わるのです。
その結果、身体になじみやすく、ホルモンを刺激しやすい、身体の中に吸収されやすい状態となった結果だと言えます。
このことから言えるのは、からだによい食物は、決してこの一点のモノだけではなく、長い時間を経過した伝統的な食物や調味料には、これらの作用が経験的に認識されていて、それを継続して使用したことによって、日本の文化としての調味料は、からだにとっても脳の活性にとっても有効であったと言えるのです。
しかし一点のみに捕らわれていてはいけません。身体にとって食べ物の中に、身体を活性化して元気にしていく要素は、たくさん含まれています。それを一点に絞って「効果がある」とするのは、たいへんな誤りです。
日本の風土に根ざし、自然で伝統的に生まれたこの土地でできた食物、そしてこの土地の季節の食べ物には、伝統に根ざした結論があります。
風土から生まれた食べ物は、健康のためにも脳の活性化のためにも有効であり、自然に反して有害な添加物や季節感のない食べ物は、からだに悪いと断言出来ましょう。
良いモノの一点のみを見つめて、一つだけをすくい上げて、それで健康になろうというような考え方が根底にはあります。現代では、その発想で医薬品が開発されています。
飛びつくようなビックな話題を作り上げるために、これらのニュースは取り上げられています。間違いではありませんが、気をつけたいところです。 自然のモノが、長い期間かけて、発酵醸造されるその間に、物質の波動が細かくなります。 そしてそうした波動の細かいものが吸収され易いことは、全てではありませんが、的確だと言えます。
日之本元極で 三元エネルギーを添加した「もとつきわみの水」「もとつきわみの塩」 には、それらを入れて作った料理や飲料に、上記のような波動の細かさ を付加します。この「もとつきわみの水」「もとつきわみの塩」を毎日の生活の中で、使用常用することで健康のみでなく、 脳の活性化にも大きな変化 をもたらすと云うことです。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(23) (げんきょくニュース7月号より)
「新陳代謝」と
「モノの道理のムジョウ」について
題に上げた「新陳代謝」とは、古い物が去って新しい物がこれに代わっていく事ですが、生物学的には体内の物質代謝のことで、英語で言えば METABOLISM。最近はやりのメタボリック症候群という言葉はここから来ているのでしょう。一般的には体内の物質の入れ替わり、細胞の新旧交代などを指しています。
ひとつ視線を体外に向けてみると、それは全く体内と同じく新陳代謝されていることが解ります。
つまり人の身体も動植物も、岩も空気も水も地球も宇宙も、皆そうなのです。有形有象の物、総てに寿命があり、新しい物に入れ替わっているのです。このことから我々の居る三次元物質世界は総て新陳代謝系統であるということが言えます。
モノが生まれ、栄え、繁殖して、次の命を産み出して、やがては淘汰されていく。そのことは、発展的な歩みを繰り返しているように見えますけれど、モノには無情にも必ず死に絶えるということがおこります。そして、次から次に新しい命が産み出され、その命は、精一杯に生きて、さらに工夫をして新しい生命を産み出すという、新たな発展を重ねます。
しかし、それとて、生命の終わりがあり、次の命に引き継がれてバトンタッチしていくということがおこります。つまり、全ては、新陳代謝の中で生きています。
このことから、常にモノは無いと同じなのです。生きて栄える。その瞬間は存在しますが、モノを残してモノが栄える。それは、その瞬間、その時その一時の瞬間的なモノであるとしか言えません。無情なるモノのなかにモノは栄え、モノの中に無常は存在する。
全ては、そらんじるモノ。全ては、空なるモノで、無なるモノ、無常であるのです。
ここまで読んできて、「あれっ、何故『無情』と『無常』、『ムジョウ』とに書き分けているのだろう?」と思われている方も多いことでしょう。
それらムジョウについて、身体の構造に戻って見つめてみても、全くその通りなのです。細胞の一つ一つは独立した組織ではあります。しかし、その独立した細胞一つ一つは生まれてきて、やがて、死に絶えてまた次のモノに発展していく性質を持ちます。人の身体は、それらの細胞の無情なる営みの結果の集大成として存在するわけです。そのことを忘れてはいけません。
一つの身体を一人の人が生きているのではなく、細胞の新陳代謝を繰り返す物質の生き代わり死に代わりの無情の上に、一人の人の身体があり、それを生きる意識があるわけです。
そしてその意識にしても、顕在意識一つに限らず、潜在意識、心、本性、魂と五つの意識の寄り合い所帯なのです。
通常、人は(解かり易く言えば、顕在意識は)そのことを考えもせず、自分の身体は、自分のモノであるという傲慢な考えが、まかり通っています。そうした気持ちによって起こしてしまう「自殺」を肯定しては、絶対にいけません。そして、その命を容易く絶ってしまうような、「殺人」「殺し合い」「戦争」ということも容認してはいけないことです。
つまりは、そういう意味からも人と人とが殺し合わない世の中というモノが、人の理想になるわけです。
モノとモノとが関わり合いながら、同時にその関わりは無であるのです。相互に密接に連絡し合い、密接に関わり合い協調しあうことを常に起こしながら、それぞれは、独立したモノで、すべては、無常なるモノの集まりであるということです。すべての生き物の関連性や協調は存在しているけれども、同時に相互の生き方に至るまで、すべて無であり、無情なのです。
これらのことは、長年の我々の内を見つめる修錬によって、「我々は悟った」ということ、そして「伝え続けられている」ということを知らせておきます。
そしてその無情なるものの寿命は、それが生まれたとき、いや生まれる前から決定されています。その寿命の中でいかに生きるか、いかにその寿命を全うするかは、そのモノのその期間の過ごし方である程度決定されます。ある程度という意味は、残りの総ては既に決まっているからです。地球とて出来上がった時に、生まれ変わるときは既に決まっており、 変更出来るものではありません。その期間内どう地球が経過するかは、その上に存在している動植物・鉱物等の働き次第なのです。その地球上の存在達自身も、その期間、総ての関わりの中で快適に過ごせるかどうかは己等の働きにかかっているのです。
本当の意味のクオリテイ オブ ライフ(QOL)とは、こういうことをいうのです。
長々と述べてきましたが、結局我々の生きているこの物質世界、言い換えればモノの世界の道理は「新陳代謝」であって、「無常」なものだということです。その「ムジョウ」を知った上で、その刹那刹那の生活の質、クオリテイ オブ ライフを、本当の意味で向上すべきなのです。
日之本元極 亀仙人
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気功講義(22) (げんきょくニュース3月号より)
新乾坤 ( しんけんこん ) への生き方
アメリカにて 1930年頃から2000年ほどの間で、幸福に思っている人の率を調べる統計があります。その年月の間に国民の所得は、ほぼ右肩上がりで約4倍にふくらみ、経済的には相当裕福になっているはずですが、幸福だと思っている人の割合は30パーセント前後を行き来し、いつの時代も変化がありません。
どうも人の幸福感とか心のあり方というのは、ある条件の生活レベルを満たしていれば、いくら裕福であろうが関係のないことのようです。むしろ昨今の自殺者の増加や、巷に溢れる鬱病患者の数を見るにつけ、「もっとお金を・・・」「更に高い地位へ・・・」という社会全体の競争格差を煽る方向付けこそが、人々の「幸福への道」の盲目的逆走を奨励しているかのようです。
人の生活というのは、当面暫く変わりなく続いていくと思います。ただ人の経済活動を因とする異常気象などの災害や地震・津波、世界各地で無差別に起こっているテロ等から、いつ自分にそれらの非常に限定された過酷な生活が強いられるかも判りません。まったく明日は我が身と言わざるを得ないのです。
しかし、もしそうした状況に陥ったとしても、物を求めない、与えられなくともそれで充分充足感を得て満足していくというような求めない感性が育っているならば、それはストレスにはならず非常に円満な環境を創ると云うことができると思います。求めない環境、求めない心の環境、顕在意識の環境を創ると云うことがストレスを少なくし、身体への良い影響を波及させる事を可能とします。
これからも人の生きとし生きるという営みは面々と続くことになります。面々と続く時の流れの中で欲を持ちながら、その欲が喜びになるように求めすぎない、求めないから喜びとなるようなそういう生活、そしてそういう心の状態にしていくことが、人が人として生きていこうとする我々の持つべき態度です。それを我々一人一人がそういう態度を持つならば、そのことが相互に感染して周りに波及していくと云うことになります。
あなたの周りに集まる人々に、求めない生き方が感染することが出来るならば、非常に多くの者達が幸せに満ちた、現状で満足していくというような状態を生み出すことが出来るでしょう。
そして毎日のそれぞれの生活がどんな状況に陥ろうとも、淡々と迎えることができます。どんな事が我が身に降りかかってこようとも、穏やかに全てを受け入れていくという心の状態を今から準備をしていく必要があると思います。必要な者は必要でなくなり、求める者は求めなくなり、与えられる者は与えられるがままに、非常に困難な状況の中でも、常にゴムまりのように弾んだ心でいることが出来るというような心を、あなたがまず持つことです。そしてその弾んだ心を周りに広げて行くというような、そういう役割をあなた方が担うことです。その中で人の心を変えていく原動力、そして人の身体を癒していくというような原動力が誕生してくるでしょう。
日之本元極では、以前にも増して、昨年から急速に、「階む」、「階ひと」功法の定着と、収式・調和の追加、出毒素シリーズ、長寿長生講座、搬音修錬法などの発表と、功法にて身体と心の変革を提案してきました。更に今年に入り、「階ふた」の公開を実施し