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【気功講義|芸術と気功】でご紹介したモノを掲載しております。

30~32 写真と意識とエネルギー(1)~(3) 2009.2.6
28~29 大黒天とボッチョーニ(1) 2009.1.6
23~27 ピカソ再び(1)~(5) 2008.12.27
21~22 ダリはどうやって絵を描いたか?(1)(2) 2008.12.25
16~20 ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、
件(くだん)の神へ(1)~(5)
2008.12.20
1~15 巨匠 ピカソ展 (1)~(15) 2008.12.03

2009.2.7               【気功講義】

写真と意識とエネルギー(3)

写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく、
『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのこと。
氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだという「みのたろう」さんのブログに触発され、写真での無形のモノのやりとりについてお話ししています。
「みのたろう」さんのブログは、
こちら

例として、徳の高い修練者が写真を撮る場合など、写真の腕は良くないけれども「よい写真をとろう」という意図を持って写真を撮っているので、撮られる方(花や草木など)は、喜んでいる。そういう無形のエネルギーのやりとりがなされている。だから、そういった場合には、写真の画面から、心地よいエネルギーを感じることになります。

草木、花、山河のエネルギーが自然に写真から出てくることになります。
然れども、一般に写真の場合は、絵画と違い、撮る者の一方通行の場合が多くなります。
思いの質に沿うように波動が変化します。撮る瞬間、その時に被写体に対して思いがあれば、その感激が、そこに反映されてくることになります。その撮ったその瞬間の思いに同調して、エネルギーが激写されます。

エネルギーの移動は、シャッターを切ったときに激発的になされます

激発的に、移動したエネルギーは、現像されたとき、はじめて目にしたときに、反対に見た者に移行します。そこに、エネルギーの移動の関係が出来るのです。
その
エネルギーの移動こそが、
         写真を見たときの感動を生んでいる
のです。
(つづく・・・・かな?)



潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-気功 写真 エネルギー 意識
photo by Sigma DP1
2009.2.6               【気功講義】

写真と意識とエネルギー(2)

写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく、
『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのこと。
氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだという「みのたろう」さんのブログに触発され、写真での無形のモノのやりとりについてお話ししています。
「みのたろう」さんのブログは、
こちら

エネルギーは、無形のモノですから、無形の意識に左右されます。意図があれば、無形の意志に左右されます。無形の意志に同調して動きます。

カメラマンに、通常では写らないモノを撮ろう撮ろうとする意識がある場合には(オーブのようなモノを意識的に撮ろうとする場合など)、その意志に動じてエネルギーが動きます。

それは無形のモノですから、波動が同調するエネルギーのみが動きます。たとえ、被写体に多くのエネルギーがあったとしても、そこ(カメラ)に、受け取れるエネルギーというのは、同調するエネルギーだけです。

善意を持って写そうとすれば、そのような善意のエナルギーが転写されますし、功名心を持って撮ろうとすれば、そんな荒い波動のエネルギーが集まってくるのです。
無形のやりとりとは、そういうことです。

双方の意志が同調しなければ、そこには、関係は出来るけれども、お互いの意図の関係は、より強く意志を持つ方に支配されます。写真を撮られる方に格別な意志がなければ、撮る方の意志に同調して、動くことになります。

相互の関係ではなく一方に意図があれば、一方の意図に、引きずられるように、一方の意図の延長線上の波動に、引きずられます。
(つづく)

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-気功 写真 エネルギー 意識
photo by Sigma DP1
2009.2.5               【気功講義】

写真と意識とエネルギー(1)

以前、ピカソやダリ、ボッチョーニを例に取り、芸術上での無形のモノのやりとり、意識の働き、エネルギーの移動などについて述べたことがありました。
本日、「みのたろう」さんのブログで写真について、専門家の意見が出ていましたので、写真にとっての無形のモノのやりとりについて、お話ししたいと思います。

「みのたろう」さんのブログでは・・・・・、
写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく
『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのことで、氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだとしています。
「みのたろう」さんのブログは、こちら

実のところ、写真では、情念のやりとりが、瞬間的に爆発しておこります。
爆発的なやりとりがその瞬間に起こるということをお伝えしておきましょう。その写真を現像した時に現れるだけではなく (これはフィルムの場合。デジタルカメラでは、ディスプレーに写した時) 撮影した瞬間、撮影した瞬間、その時その時に、エネルギーを交換し続けるエネルギーのやりとりのルートが出来るということです。

それでは、エネルギールートができるとするならば、写真を撮るときに自分のエネルギーが、そこに注がれるということはあるのでしょうか?
それは、以前お話ししたピカソの如く、写真においても、被写体からエネルギーを取ろうという意識が有るか無いかは別として、相手のエネルギーを取ろうとして写す者と、自分のエネルギーを相手に注いでしまう者と二種類あるのです。
(つづく)



潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-気功 写真 エネルギー 意識
photo by sigma DP1
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2009.1.7             【気功講義|芸術と気功】

大黒天とボッチョーニ(2)

この大黒が走る姿という新聞記事を見て、大黒天ご自身にお話を伺いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わっはっは、
わしじゃよ。大黒じゃよ。
これは、わしが走っている姿じゃよ。けれども、通常人が、走って歩く、走って飛び跳ねるという姿ではないぞ。走ってすべる、走って進行するそういう姿じゃよ。つまりは、われわれは、人の形をしてはおるが、神の存在じゃ。身体は有機物じゃが、無形の身体を基として存在しておるのじゃ。

重量というものがなく、飛び跳ねる必要がないのだよ。走っているけれども、人の常識で考える走る姿ではなく、すべって、飛んでいる姿だと想像してくだされ。そのために、右手、右足。左手、左足がそろって、前に踏み出されているのじゃ。

交互に、滑って走る走り方のようになっていて当然じゃろ。
この像は、そういう、我々の存在を感性で捉えた者が、我々の姿を見えるようにあらわしたものなんじゃ。

古来、日本にはそうした見えないものを感得する能力を与えられて生まれてきた者が多く居ったのじゃ。そうした像や、絵画には、伝統的に伝えられてきた物が数多く残されて居る。

人の形で存在している神ではあるが、それは、指導する対照の人々と気持ちを同じくするという意味で、身体を同じくしておるのじゃ。
しかし、われわれは、無形の存在として神の世界、無形の世界に、依拠しながら、この世に存在しているものなのじゃ。

もうひとつの走っている像は、人がモデルじゃぞ。
まったく重心の位置がちがっておろうが・・・・。
重心の位置が人として、足にあるのに反して、我を模した立像の重心点は身体の中央にあることがわかろうものぞ。

人を表しているか、その立像が何を表しているかは、無形のものを感得しようとする気持ちを修練すれば、自ずから、モデルとなっているモノが、何者であるのかということがわかるようになってくるんじゃ。
判ったかの~、わっはっは・・・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この中の、滑るという感覚は、スキーの距離競技を思えば判るでしょう。
身体が左右にぶれず、一回の蹴りで長く滑るには、右手と右足が同時に出るのです。走るときのように右足左手を出して滑ってご覧なさい。身体が捻られて、上手く滑れないはずです。
いずれにせよ、無形無象のものの大切さが判ります。(完)


ボッチョーニは、
ウィキペディアで・・・・・

日之本元極からのお知らせ-気功講義 ボッチョーニ3

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2009.1.6             【気功講義|芸術と気功】

大黒天とボッチョーニ(1)

2008.12.11の朝日新聞夕刊に以下のような記事が掲載されました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
美 くらべて見る11  大黒天立像VS.ボッチョーニの彫刻
走る姿 ゴールは同じ

ふつう大黒天というと、右手に打ち出の小づちをもち、大きな袋を背負って、米俵の上にどっかり座るか、しっかと立つかのどちらかのポーズをしているものだ。

ところが鎌倉時代に作られた「大黒天立像」(奈良国立博物館蔵)は、両手両足を前後に大きく開いて疾走している。大地をしっかり踏みしめ、ひたすら前へ前へと力強く邁進しているのだ。
これは「立像」というより「走像」といったほうがいい。

こうした自由闊達な姿態表現は、日本では、平安時代の絵巻物から北斎にいたるまで見られるものだ。
ところが、ヨーロッパでは、躍動感や飛翔感の表現にすぐれた成果を上げた17世紀のバロック美術、そして19世紀のロダンでさえ、走る彫刻までは生み出さなかった。

ヨーロッパで、動きの表現を本格的に追求しようという気運が高まるのは、20世紀初頭のイタリア未来派においてである。連続写真の開発に刺激を受けて、動きの表現を絵画に積極的に取り入れたのが始まりだ。
ボッチョーニはそれを彫刻でも試みて、「空間における連続運動の特異な形態」という作品(写真下)を生み出した。

ボッチョーニの作品は、人間というよりは、ロボットやサイボーグを思わせるが、それでも生身の人間の動きを感じることが出来る。水あめみたいに粘りのある液体の中を人間が通ったら、こんなイメージになるのかもしれない。

人体の動きの軌跡、人体の周りを包む空気までをも形にしているため、太ももやふくらはぎが異様に膨張し、まるで衣服の裾がひるがえっている様に表現されている。それが結果として、袖や裾に風をはらんでひるがえる大黒天の衣服に近づくことになったのだ。

ともに右足を大きく前に踏み出している点まで共通しているのも偶然とはいえ面白い。
それぞれまったく別の地点から運動表現の問題に迫って、似たような解決法に落ち着いたところに、造形表現というものの普遍性を感じる。



日之本元極からのお知らせ-気功講義 ボッチョーニ1
















日之本元極からのお知らせ-気功講義 ボッチョーニ1

















ボッチョーニは、ウィキペディアで ・・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この二つの作品を比べ見て、無形無象のものをある程度体験したものであれば、全く違うものであることがはっきりと判ります。
まず両作品が右足を出している共通性が判ったのであれば、何故大黒天像が右手、ボッチョーニ作が左手を出しているのに気がつかないのでしょう。

ボッチョーニの作品では、下半身と上半身がひねられています。通常の疾走と言って良いでしょう。衣服のたなびき(作用する力の向きと言っても良いかもしれません)は、後方下向きです。左右の足の下の大地は、別けられてはいますが、平面の連続性を感じます。

然るに、大黒天像にあっては、右足と右手を大きく前に出しています。江戸時代以前の通称ナンバ歩きではそういったことはありますが、全速力で走っているならば、けしてそうはなりません。
両手首の向きに注目して下さい。走っているときの向きではありません。

また衣服のたなびきが、上に向かっているのが判るでしょう。右足などはめくれ上がっています。足の下は、左右が繋がっているにも関わらず、左足の部分が深く沈んでいます。疾走しているのであれば、こんなへこんだところに足を入れることはありません。この作品の、足の下のものが、大地に見えますか?

ではこの大黒天は何をしているか、・・・・・飛翔しているのです。
足の筋肉に力が入っていないのが、お判りになるでしょう。
二つの像では、重心位置、またその加速度方向が大きく相違します。

見えるものを像にした作品と、見えないけれども感じたままに作られた作品の大きな違いです。

芸術を見る目とは、肉眼で細部を見ることに加えて、見えないものを見る目のことを言い、見えないものを感じる感覚を研ぎ澄ますことが重要な鑑識眼を育てることに通じます。

この大黒天像は、立像でも走像でもなく、飛翔像と言うべきです。

(続く)
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2008.12.31             【気功講義|芸術と気功】

ピカソ再び(5)

ピカソの神が、自らの業績と作品について詳しく述べて下さった貴重な「芸術論」も、今回で最後です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
後世に残す目的で描かれたわけではない私の絵が、結果的に後世に認められて、あるていどの評価を得ているのは、非常に嬉しいことです。わたしは、生活の糧として描いた時期もありましたし、思いのままにわがままに描いた時期もありました。それらの私の人生の道のりがあってこそ、結果的に良い絵が生み出されたのでしょう。

私に与えられた役割は、自分の得意とする絵画、芸術で人々を魅了することです。
感動が存在すると共感が生まれる。共感によって、相互の関係ができれば、エネルギーのやり取りが発生し、結果として感動が残り、定着する。そういう「魅了」が実現したのを喜んでいます。

そのとき、そのときの思いの丈を表現できた喜び、多くの者に自己の思いを訴えることが出来た喜びを感じています。
今、神としての立場を与えられて、共感して心を動かすという点で、気持ちを同じくして歩く者たちとともに、仕事をしていくことになります。

モノが動く、ということと同じように、心が動く、ということは、事柄の基礎となる大切な底辺です。心を動かすということは、共感する、同じ思いをする、波動を合わせる。そして無形であるエネルギーの流動が完成する、ということです。私のアドバイスがそういう分野で、あなた方に生かされることを切望しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
終わるにあたって、一つ申し添えておきます。ピカソの神は、取り立てて一つの色に愛おしい程の愛着があったということです。それは「黄緑」です。わざわざそのことを、私に「記憶しておいて下さい」と、最後に述べていかれました。(最終回)

ピカソ 「座る女」1945
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 元極 日之本 座る女
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2008.12.30             【気功講義|芸術と気功】

ピカソ再び(4)

作品と見る者達の共感について、ピカソが続けて語ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
意味の分からない、私の絵を見て、何人も共感など感じないはずです。にもかかわらず、多くの者が私の絵をみて、「この絵に何が書かれているのだろうか?」という疑問を抱いて自分の考えを上乗せしてみたりしている。共感がそこに成立して、見ている(観ている)側の者が、私という作者の気持ちに共感しようとしている。
そこに、エネルギーのやりとりが成立します。共感して、波動が同調する部分こそが、気持ちを揺さぶり動かす原動力になるのです。
「描かれている訳の分からない、形状や色彩感覚の私の絵から、何を感じ取ろうとしているのか?」それは、その者達の感性です。その感性が動いて、心が動くと波動が同調、協調して、一つになって、心がゆり動いていくのだと思います。
一例を挙げましょう。

「読書する女」
この色彩は、ナントばかげていて、愛らしい、素直な姿を示していることか!
この色彩は、感性のままに描かれている色彩です。私の個性のままに、かかれたこの色彩持つこの絵は、私の愛する個性あふれる絵の一つです。

突起する形状
いくつかの作品に描かれた、突起する形状は、また、あなた方の目にとまることと思います。突起する形状は、そのモノの印象であったり、とんがっていたり丸かったり、それは、そのもののもつやさしさ、モノとしての存在感の結果の形状です。
女性は女性らしいから丸いのではなく、人となりの円熟さが、突起の形状の結果として丸く書かれています。とがったモノは、とがって、丸いものはまるく、形状が、表されています。有形のモノの形ではなく無形の個性の形がそこに表されているのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(続く)

 ピカソ 「読書する女」1935

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 元極 日之本 読書する女

ピカソ 「海辺の人物たち」1931
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 元極 日之本 海辺の人物たち
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2008.12.29             【気功講義|芸術と気功】

ピカソ再び(3)

ピカソは、絵画だけではなくリトグラフや彫刻、造形物など、数は少ないけれども、作品を残しています。
それらに関してピカソの感想です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
彫刻は、私にとって手を満足させる手法として、自分の気に入った工作でした。
平面的で、表面的な表現しかできないカンバスと違って、立体的に物事を捉えることが出来る彫刻などの造作物は、私にとって好きな作品でした。

しかし、わたしのアイデアや湧き上がって来るエネルギーを次から次に、昇華させるには、あまりにも時間がかかったので、それほど、多くは残していません。けれども非常に好んだ工作でした。

いずれにしても、自分の気持ちを表現する技術を与えられたことは、幸運なことです。誰しもが、自分の気持ち、内面を表現したいと望んでいますが、それは、往々にして許されることなく、自己表現できないままにいます。そういう技法を神からいただいた私は、非常に幸運だったと思っています。

作品の一つ一つは、私の手柄、誇りです。手柄として私の手の後、気持ちのあとが、表現されている「てがら」です。手柄は、だれにもあることですけれど、それが、数多く形にして残せる画家という仕事は、名誉ある仕事だと思います。作品が、後世のあなた方にまで認められて目にとまることは、本当に幸せだと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(続く)

 ピカソ 「母と子」1971
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 元極 日之本 母と子
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2008.12.28             【気功講義|芸術と気功】

ピカソ再び(2)

修練を積み、エネルギーに敏感な者が、ピカソの絵を見ていると中丹田、中黄庭などの、お臍の高さにある竅穴にエネルギーが入ってきます。それは、どうしてか?というと、中丹田、中黄庭、命門という竅穴は、人の生命に直接そして大きく関係する竅穴だからです。
ピカソの作品からは、生命のほとばしる様なエネルギーが発散されています。
自分の作品について、ピカソ自身がそのあたりの解説をしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の絵は、見る者に感動や感銘を与えるような絵では、ありません。カンバス上には、ある私のエネルギーやモデルのエネルギーが凝縮して乗せられています。このエネルギーのやりとりによって、私は成長し、彼女たちは、かわいそうにもエネルギーを奪われてしまう、という結果になりました。もちろん、その時、私はそういうエネルギーのやりとりが、具体的に起こっていたということなど知るよしもなかったのです。

カンバス状に描かれた絵の詳細を見て取ったり、分析しようとするのではなく、ほとばしり出るようなエネルギーの存在を感じて受け取ってもらった方が、そのものの本質を見極めることになるでしょう。
私の絵の技法など、評価されるべきモノではありません。簡素で爆発的な思いで、描き殴っている、思いの丈を描いているだけのものです。
評価を受けるとするならば、感性、感情、人の生命に関わるほどのほとばしり出るエネルギッシュな無形の意識やパワーの躍動が、このカンバス上にあることです。

絵画の善し悪しは、客観的に第三者が、それを評価するべきではないと私は考えています。善し悪しを決定するのは、描いた者の充足感、充実感、満足感であると私は考えています。さらに、モデルとなっているモノとのエネルギーのやりとり、交流がうまくできたならば、結果的に人の心を感動させる「絵画」が存在することになります。

第一義的に描いた者の「満足」が、まずあることです。不完全な気持ちの延長線上には、人の心を動かすほどの感動は存在しないからです。それは、絵画だけに留まらず、あらゆる出来事に共通するものです。不完全な、不満足な自信のない結果では、人の心を満足させることなどあり得ません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(続く)

 ピカソ 「家族1970」
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 家族 気功 元極 日之本
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2008.12.27             【気功講義|芸術と気功】

ピカソ再び(1)

肉体を失ってから、神として存在する「ピカソの顕在意識」から、自らの絵画、芸術観などを、更に詳しくお話しいただきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は生前、人として勝手気ままな生き方をしたのにも関わらず、こうして神の存在となり得たのは、芸術を通して無形のエネルギーのやりとりや、人の意識は一つではないことを多くの人々に暗示することが出来たからです。神になれる基準というものは、人が考えているものとは大きく異なります。

神と言えど、絵画を担当する神の中では、端くれのようなモノです。この世界には、もっと大家がいらっしゃいます。結果として、私があなた方の道案内をした光栄に感謝しています。

私の描いた絵の顔の表情の左右が、違っていることに気がついていると思います。右をみているのは、写実的な世の中の光をみています。
左目は、世の中には、隠されている他の意識の人となりの存在です。

全ての時代を通じて、感性を優先させて描いていたのではありません。感性を優先させて、感性のままに描いていたのは、晩年です。全ての事柄を手に入れて、技術的にも名声も手に入れたときに、感性で描くという衝動を手にしました。

衝動のままに書くことを許された条件がかなった時に、それが出来るようになるのです。やりたいことが思いのままに出来るということは、それが許される条件がなければ、実現しません。

感性を感性として、衝動的なモノをそのままに表せるほどの条件が揃っていなければ、そのことは可能にならないということです。人は、人となりとしての仮面をかぶると、人となりの一部を被い隠すことができて、仮面の形相と化することを可能にします。

仮面の形相、それは、そのものの核心的な一部分であり、人となりの本質に迫る意識の構成部分です。仮面の形相を表すことを無意識に求めていて、顕わにすることを望んでいるのです。仮面は、まさしく、私の形相を表に出すこと、私自身の内なるモノを表面に表現する役割を果たしました。

人の内面、意識には、二つの意識(それ以上かも知れない)が存在していると感じていました。人の持ち味の中に、二つの意識が同時に存在し、その人の形相にそれが醸し出されています。その様相を直感的にカンバスに表したのです。晩年の作品にこそ、それらがより如実に表されています。人の意識は、同時に、行うこととは違う別のことをみています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(続く)

 ピカソ 「泣く女 1937.10月」
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 泣く女

ピカソ 「泣く女 1937.7月」
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 泣く女
2008.12.26             【気功講義|芸術と気功】

ダリはどうやって絵を描いたか?(2)

ダリの絵画には、ピカソとちがって、情念とかは、関係ないのでしょうか?
ダリには、妻とのエネルギーのやりとりの気持ちだけで絵を描いていたのでしょうか?
シュールリアリスムの旗手であり、奇行の人サルバドール・ダリの芸術、その本質に迫ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ダリの顕在意識)
わたしは、形状の認識、形状のうつくしさ、形の構成、これらのことに、非常に興味がありました。平面的なことでも奥深く。奥深いことでも平面的である。その物体が形成する美しさは、まさしく平面ではなく奥深い。ものの持っている元本があるというように感じていました。

あくまでも、その奥を描きたい。奥深い存在を描き続けたい、と思ったのです。
彼女(ガラ)には、大いなる魅力を感じました。自分にはない奥深いモノをたくさん感じたのです。ものの、形状の醸し出す美しさ、それは、無形の世界が重なって出来上がっているということが、わたしには、よく分かりました。みえない事柄の本質を描こうとしたのです。

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ダリとガラは、1929年初めて出会いました。その時ガラは、ダリの友人の妻だったのです。1932年その困難を乗り越え、二人は結婚しました。ここからダリは、ガラを題材にした多くの作品を残すことになりました。

1982年、ガラは死去します。ダリはこれに失望し、以後殆ど作品を手がけていません。
1989年、失意の中で亡くなりました。85才のことです。

2008.12.25             【気功講義|芸術と気功】

ダリはどうやって絵を描いたか?(1)

昨年夏、名古屋市美術館で「ダリ展」がありました。日之本元極では研修ということで、スタッフ揃ってこの展覧会を見に行きました。
ダリは、数多く妻の絵を描いています。それについて我々には、奥さんのガラが、金銭欲のきわめて強い人だったので、その金銭欲のエネルギーを彼に渡し、彼が、絵を描いて欲を昇華する、という循環をしていたのではないか?と思われました。そこで「ガラの魂」「ダリの顕在意識」にその辺の事情を聞いてみることにしましょう。

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(ダリの妻の魂より)
欲というものは、限りなくほとばしるようなエネルギーが湧き出すモノです。そのエネルギーの先には、寄り集まってくる欲のかたまりがあります。欲が欲を産み、また、その先に欲を産むというように、集結してくるものです。同じ波動の欲は、溜まってきます。

わたしは、絶大なる欲望の固まりとして、ダリとともに暮らしました。
ダリは、それによって、描く欲を満たし、私は、彼によって金銭の欲を満たしていきました。物にとらわれて、傲慢にむさぼるように、より集めていくという欲の結果が生命力を生み出し、生命力と泥仕合のような欲の連鎖が、みにくくも生き生きとした、美貌を生み出しています。

ダリは、自分にないものを妻が持っていることをよく分かっていました。そのために、妻を描くことで満たされたのです。妻の姿にひかれた訳です。

彼は、いともたんぱくな性格でした。ものごとにあまり捕らわれない。懸命に絵を描くことに執着した人です。他の物事には、あまり捕らわれなくて、形を写して、描くことに意欲を満たした人です。

生活そのものは、捕らわれない結果、質素でした。傲慢な彼女(ガラの顕在意識)の欲望というのは、彼の描く欲を満たすために、常に昇華されていきました。わたくし(ダリの妻ガラの魂)は、ダリに絵画を描かせるために、彼女(ガラの顕在意識)を誘導したということです。

わたしは、そういう役割を持っていましたからダリの妻(ガラの顕在意識)をそのように誘導しました。世の中には、悪でも善になり、善でも悪になるということは、よくあることです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

注)人には、魂、本性、顕在意識、潜在意識、心の5つの意識が共存している。

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2008.12.24             【気功講義|芸術と気功】

ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、件(くだん)の神へ(5)

牛頭と件の神のお話の最終回です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回、件の神は、農政、農業全般。
牛頭は、実際に農業に密着している農作業を受け持っている関係があると伝えたのは、それこそ「件の如し」であります。

そのなかでも農業に関わる我々牛頭の神々は、件の神々とバランスを取りながら仕事をしています。この、政策がおおきく崩れ始めました。このことが「はじめ」となります。
あなた方の功法をおおきく前に進めるきっかけとなります。

もちろん、それはあなた方だけの問題ではありません。この地球が破滅、更新する手立てです。ここから、風が吹き始めます。これらの偏った政治の結果、生み出された悪事を全て知りながら、ものともせずに、前に進みなさい。

生活、生きる基本となる農政が崩れています。そのことが、あなた方の道を広げていきます。終末の世に期待することはなく、どんどん悪化の一途をたどります。そのことが、日之本元極の功法が見直されるという皮肉な結果になります。
(日之本元極功法をある程度極めると、無形無象の先天三元エネルギーを取り入れることで、有形有象の食糧エネルギーの取る量を減らす事が可能になります)

それは、まったく正しい事柄であり。貴重な事柄です。人の原点、日之本に帰る大切な原点であるということを伝えておきます。

人が、この終末の世を生き延びるためには、信じて神の御心に沿って生きることだということが分かるようになります。そして、そういう者達が寄り集まって船(次元上昇の船)に乗ります。

これで、農政とあなた方をつなぐ道が出来たことを伝えます。崩れるという意味は、動物を食べるという事から崩れていきます。
今後世界中で、動植物とも収穫量が減るので、動物に少量を与えて増やし、その動物を食べるというような効率の悪いことが出来なくなるのです。

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2008.12.23             【気功講義|芸術と気功】

ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、件(くだん)の神へ(4)

牛頭と件の神のお話は、更に続きます。
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件の神は、農政、農業全般
牛頭は、実際に農業に密着している農作業を受け持っている関係があります。

政策は遠いようでありますが、実際には政策に基づいて進行していくわけですから、遠くて近い関係です。わくぐみ、施策の中で、具体的な事柄が牛頭の神によって、進行していくわけです。例えるならば、会社の方針と社員、国と地方、のような関係です。

繰り返し言いますが、上下の関係ではありません。横で繋がっている関係です。それは、繋がりとしては、縦でも横でも繋がっているのです。

件の神が日之本に礼を言います。
今まで永い歴史の中で、牛頭の神はあちらこちらで祀られてきました。しかし私は、化け物としては、その存在を知られていましたが、あなた方の様に私を神として正しく感得し、祀ってくれたのは初めてのことです。
大いなる喜びに感じています。

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これに照らし合わせれば、現在の国と地方行政の立場は大きく外れていると言えます。
政(まつりごと)=祭事=祀事 とは何であるか、原点に返って考え直すべきではないでしょうか?
(続く)


 ピカソ「槍を持つミノタウロス」1934
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 「槍を持つミノタウロス」 

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2008.12.22             【気功講義|芸術と気功】

ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、件(くだん)の神へ(3)

前回に続き、牛頭と件の神のお話です。
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件の神は施策を担当します。いわば、枠組み政策、ということです。

牛頭の神は、その中にあって、事柄を具体的に勧めていくような、まつりごと、行事を具体的に進行していくというような役割を持ちます。ですから政策、施策、方針があって、それに基づいて牛頭の神が具体的な事柄を進行させていくということをします。

施策を担当するのは、件の神の仕事です。計画、立案、検討、施行、公布という案を立てます。

牛頭の神は、それに基づいて、それを受け取り、実際に拡げる広闊に活用する、沿道(えんどう)に拡げる。
     注)沿道:道に沿った場所、つまり周りに拡げていくことをする。
           立てられた政策に沿って広めていく


人を動かす、モノを動かす、という仕事をします。
国と地方。実践と計画。枠組みと中身。そういう関係です。それらは、上下の関係ではなく、縦と横の関係であって、平等の関係です。どちらが上というような身分の上下ではありません。

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(続く)

 ピカソ「傷ついたミノタウロス、馬と人物」
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 傷ついたミノタウロス、馬と人物 
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2008.12.21             【気功講義|芸術と気功】

ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、件(くだん)の神へ(2)

牛頭(ごず)神社の神と、件(くだん)の神がお話し下さいます。
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牛頭神社の神です。
牛頭と件(くだん)について知らせておきます。
牛頭というのは、行事。件というのは、たて。
牛頭と件というのは、互いに相関し、敬遠し、近遠の関係です。牛頭が近づけば、件は、遠のく。件が近づけば、牛頭は遠のく。そういう関係があります。

件の神々は、牛頭の神々の後にきます。件の神々が来たときには、牛頭は下がり、件が前面に出ます。件が前に出たときには、牛頭は、拡散します。

いずれも「農」と「業」を司っています。どちらも生命に関わる「食」を作り出す働きをする神々の集まる場所です。

件の神が日之本に伝えます。
私と牛頭の神は、相関する関係になります。たて、よこ、うえ、した、共に調和を取りながら働いています。食にまつわる事柄だけではなく、農業、農政、農務に関わる人々の暮らしについても相関の関係を持っています。

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(続く)

 ピカソ 「牧神と馬と鳥」1936
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 牧神と馬と鳥
2008.12.20             【気功講義|芸術と気功】

ピカソのミノタウロスから牛頭(ごず)大王、件(くだん)の神へ(1)

ピカソの絵画よりミノタウロスは、牛頭の神の変身であったことが判りました。その牛頭の神から、「件の神と牛頭の神の関係」について話していただきます。
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農耕民族にとって、牛は大切な農業に欠かせない宝物のような存在でした。それを祀ることは、農耕の発展の象徴として重要でした。わたしは、農業の発展、食物の発展を司って働いていたことからこの名前が付いています。

牛頭神社の私は、今、その働きを開始することを命じられました。
農業が発展させる力を日之本元極に与えます。我々が導き、その通りに、また、あなた方が思うように農業が展開していきます。日之本に大いなる力が渡されたことを知らせておきます。

件の神が、農業の神として殆ど認識されなかった訳について、伝えましょう。件の神は農政の総称だったということです。直接人に関わるのでなく、件の神は、「ぼん」の様なモノです。盆にのったモノを人は大切にします。盆がなければ、まとまりがもてません。盆の上のそれぞれのモノについて、感謝したり収穫を喜ぶけれども、「盆」の存在を喜ぶことはありません。そのために、人々に認識されてこなかったのです。

牛頭の神より日之本に伝えます。
われわれ食物のことを司っている神は大勢います。食物、植物、食べ物など広い範囲で、多くの神々が関わっています。

食物は、多く食べる物だけに、限定しているのではありません。今現在は、食物は、食べれるモノを指していますが、それ以外の広く食べる事が可能なものは、広がっていきます。今まで食べていなかった植物についても食べられるものとして、あなた方の管理下に踏襲されるということです。
すべての植物は、ある程度、人の食物となるような性質を持っています。

(この項では、「食物」「食べ物」「食べる物」「食べられる物」「食べることが可能なもの」等、語句の使い分けに十分注意してお読み下さい)
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(続く)

  ピカソ ミノトール誌第1号表紙
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 
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2008.12.19             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(15)

人身牛頭の神として、日本の「牛頭(ごず)大王」、「件(くだん)の神」と、ギリシャ神話に出てくる、そしてピカソの描いた「ミノタウロスの神」の関係についてミノタウロスの神が直接、続けて答えます。

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わたくしミノタウロスは、農業の神です。農業を携えたその象徴は、権力と武力です。
権力は武力であり、そのもっとも勇ましい姿がミノタウロスであり、象徴でした。

それが、変遷して、知力になった「牛頭の神」が、権力の象徴、武力の象徴として敬われていたときに、政策や農政や方途、使途、方法などによって、整理精算してもっと、気高い心で人の道を究めていく営みが始まりました。それが、「件(くだん)の神」です。

ほどいて知に換えていきました、「力」から「知」に換えていくことは、協調することや分担することで、可能になっていきました。バトンタッチではありません。協調と分担によって変遷してきました。

あなた方は、もっと多くの神々と分担し合い、協調し合いながら、
知をこえた「む」の見えない力で、
変遷させていきます。日之本元極の「む」の力は、偉大なる力です。

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(続く)

「女を凌辱するミノタウロス」1933

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 
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2008.12.18             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(14)

 人身牛頭の神として、日本には「牛頭(ごず)大王」と「件(くだん)の神」が言い伝えられてきました。ギリシャ神話に出てくる、そしてピカソの描いた「ミノタウロス」と、これらの神は、何か関係があるのでしょうか?という問いに、「ミノタウロス」の神が、続けて答えています。
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つまりは、時を経て、人は刀、剣のかわりにペンを持ちました。あなた方は、ペンの代わりに「無形の力を持つことを許されました。」あなた方は、この力によって世の中をひっくり返すような重大な働きをすることになります。
我々は、武力でひっくり返して事柄を起こして世の中の流れを変えてきました。人類の歴史上、永きにわたって「武力」が世を変える力でした。その世を変える力が「ペン=知」に変わり、いよいよ、あなた方は、それを引き継いで、「無」の力で換えていくのです。それによって、地上がまっさらになるような出来事が引き起こされてきます。
すべては、あなた方に繋がる道でした。
すべては、あなた方の無形の力でひっくり返るような存在です。「牛頭の神」は、農業に関わる神としてピカソの筆で、象徴として描き表されています。

つまりは、当時、我々の存在は、格式の高い神であったということです。農業の生産に関わる神は、その当時には、もっとも上位にまつられる神の存在でした。我々は、多くの事柄を支配する神でした。我々は、武力をも支配していたということです。

当時の権力の象徴は、 我々の手元にあったのです。そのことをピカソが描いたのです。彼は、我々の意図を衝動という形で描いたのです。
神の象徴をピカソによって、紹介させた。そういう導きを彼に与えたのも我々だったのです。

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(続く)
 「ミノタウロス」1933

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 
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2008.12.17             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(13)

人身牛頭の神として、日本には「牛頭(ごず)大王」と「件(くだん)の神」が言い伝えられています。ギリシャ神話に出てくる、そしてピカソの描いたミノタウロスと、これらの神は、何か関係があるのでしょうか?
注) 「件の神」の「件」という字は、「人」と「牛」が一緒になって作られています。
この答えを「ミノタウロスの神」が答えます。
「は」医者のいる日之本元極に伝えます。
戦いはすでに、始まっています。私が勇士を持って戦った歴史と勇敢な姿を見せた出来事をものともせず、あなた方が「力」ではなく「知」で戦おうとしていることを私は知っています。「ミノタウロス」と名前を変えて、私は、このピカソの絵の中に存在しているけれども、それは「牛頭の神」の変身した形相です。牛頭の神として、農業に携わるかたわら、男性の象徴としてこの世に捧げまつられて、ピカソの絵の象徴的な存在としてあなた方に語りかけようとここに存在しています。

ピカソは彼として、わたしの存在を感じてよく描いてくれました。わたしは、あなた方に語りかけることに成功しました。何を語りかけたいかというと、それは「牛頭の王」として、神の王として、収穫する事柄を手の内にしている神として、あなたにハッキリとすぐさま届けるモノがあります。

それは「む」の力です。

「む」の力とは、見えない「無」の力です。
長い歴史の中で、繰り返し「武力」を持って戦ってきた、その繰り返しをあなた方がすることになります。あなた方(日之本元極功法の修練者)は、知力を持って戦うことになっています。


##  「は」医者 = 「は」というこの顕界に生きる全ての「意識」を治す医者のこと
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写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。 「夜、鳩を抱いた少女に導かれる盲目のミノタウロス」1934

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 
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2008.12.16             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(12)

ピカソ本人が語るミノタウロスを繰り返し描いた理由です。
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私がミノタウロスを書いた理由
その理由は、二つあります。
一つ目は、その姿が勇壮で猛々しく、獣の形相を示して、われを忘れ、獣と化して要求に応じて動く容姿をしていて、まさしく人の、獣としての気持ちを象徴していると感じましたし、人の中に住むミノタウルスの存在を感じました。
男性の性の象徴として、獣のような荒々しい征服する様な感情を、私はそこに感じ、それを描き、上手く顕し切れたと自負している所です。

もう一つの理由は、そこに、神の宿る霊魂をみていたのです。神の宿る瞬間、それはまさしく性に乗り移ったかのように躍動感のある、その瞬間の形相です。その形相を描きました。神の操る 形相によって、我々の性の衝動がそこに起きている、そういう現状を描き顕したかったのです。

神は、我々を指導的に導きながらも悪さをすることもあります。
衝動的な行動を取らせるときには、神が操っている場合もあることを今の私は知っています。これらの絵画を顕したその時の私は、知っているのではなく、そのことを感性で捉えていました。

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(続く)

 ドラとミノタウロス(コンポジション)1936
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 
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2008.12.15             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(11)

ピカソは、その長い作品を生み出す人生の中で、繰り返し繰り返し「ミノタウロス」を描いています。

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## 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミノタウロス(ギリシア語: Μῑνώταυρος、ラテン文字表記:Minotauros、英語: Minotaur)は牛頭人身の怪物である。
ギリシア神話においてはクレタ島のミノス王の妻パシパエの子である。ミノス王は、後で返すという約束でポセイドンに願って海から美しい白い雄牛(一説では黄金)を得る。しかし、雄牛の美しさに夢中になった王は、ポセイドンとの約束を違え、白い雄牛を生け贄に捧げず、代わりの雄牛を生け贄として捧げ、白い雄牛を自分の物にしてしまう。これに激怒したポセイドンはミノス王の妻に呪いをかけ、后は白い雄牛に性的な欲望を抱くようになる。名工匠ダイダロスに命じて雌牛の模型を作らせた彼女は、自ら模型の中へと入り雄牛の身近へと訪れた。結果、パシパエはミノタウロスを産むこととなった。
星、雷光を意味するアステリオス(Asterios)と名づけられるが,「ミノス王の牛」を意味するミノタウロスの呼び名のほうが有名。
ミノタウロスは成長するにしたがい乱暴になり、手におえなくなったミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。ミノス王はミノタウロスの食料としてアテナイから9年毎に7人の少年、7人の少女を送らせることとした。 3度目の生け贄にアテナイの英雄テセウスが混ざり、ラビュリントスに侵入しミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスはミノス王の娘アリアドネからもらった糸玉によって脱出することができた。
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そのことについて、朝日新聞の大西若人氏は、「野生と理性が同居する自身を描いたとも言える牛頭人身のミノタウロスを描いた作品群が登場する。」と述べています。
果たして、そういうことで描いたのか? 
なぜそんなに何枚も何枚も、同じ主題の絵を描き続けたのか、その辺の理由を、次回ピカソ自身に語っていただきましょう。


潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 ミノタウロス 

「ヴェールをかざす娘に対して、洞窟の前のミノタウロスと死んだ牝馬」1936 
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2008.12.14             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(10)

ピカソが、自ら晩年の絵の描き方について、述べています。
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私にそのものの形状が見えていたわけではありません。 何かしら、そう描かなければいけない衝動に突き動かされて、筆を走らせました。写実的に書くことは、もちろん可能でした。

私は、その被写体を書こうとしたときに「どうしても書きたい」「書かなければいけない」そういう衝動に突き動かされて描きました。それは、そこにある何か、私の中にある何か!でした。その時に、その何かは、私自身も理解していませんでした。しかし、その思いの通りに描くことが一番いいことだと、私は感じていました。

すでに、富もあり、名声もあり、手に入れることが可能なモノは、すでに受け取ることが出来ていました。衝動的に書くことが許された条件が、すでに整っていました。

突き動かされる魂の声、モノの声、物体の声、人物の声に従って、ただ突き動かされるがまま、描いたのです。作品を描くことが私にとって、幸せなことでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(続く)


「膝を抱えるジャクリーヌ」1954

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 膝を抱えるジャクリーヌ
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2008.12.13             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(9)

巨匠ピカソ展(9) 【気功講義|芸術と気功】 ピカソが、自身の色使い、線の描き方についての表現法を語ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~
また、愛情あふれるモノを描くときには、丸い存在が、エネルギーが調和して愛おしく感じるときには、丸い存在を感じるように顕しました。
尖った、強い、インパクトのある偏った、象徴的なエネルギーは三角に、筋を立てた、見通しが見える、筋の通ったエネルギーの存在するときには、四角に描きました。
曲線は柔らかな未来に通じる螺旋状を感じ、直線は光のような鋭いエネルギーを表したつもりです。

晩年、私が絵の中で象徴的に使用した色彩は、黒と赤と黄色です。
まさしく、日之本元極の「もとつきわみ図」につながる色彩です。
黒は、光と陰。赤と黄色は、エネルギーの調和を示しています。
この三色を使った、代表的な絵を一緒に載せて貰っておきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つづく…

「接吻」1925

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2008.12.12             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(8)

巨匠ピカソ展(8) 【気功講義|芸術と気功】 自身の絵画について、ピカソ談の続きです。
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顕在意識自体は、むしろ萎えていきました。顕在意識は、体力と共に萎えていきましたから、もっと、公平に多くのものをきちんと描きたいという要求を持っていたのです。
しかしながら、私の他の意識たちが、もっと、ほとばしるようなエネルギーに満ちた絵を描きたい。と言い始めたのです。

そのことによって、わたしは、他の意識の情報からエネルギーを与えられて、絵画として成功させました。絵画としては、事物や、事象が元々持つ波動をそのキャンパスに表すそのことに専念しました。

自分に意識がありながら、そこにないような感覚で、私は描き続けました。そこにエネルギーの存在を書いたつもりです。そして、魂の叫びを何気なく表現しました。詳細に写実的に物事を写して描くという絵画では、決してありませんでした。

人々は、私の絵を抽象画だといっています。しかし、厳密に言うならば、それは抽象画ではなく、無形のモノを写し取った、しかも、詳細に写し取った、いや移し取った結果であることを伝えておきます。決して、私の意のままに描いたのではありません。無形のモノを忠実に写し取ったその結果が、受け取る方々にとって抽象画になったのです。
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つづく…

「人物と横顔」1928

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2008.12.11             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(7)

巨匠ピカソ展(7) 【気功講義|芸術と気功】 今回は、ピカソの抽象画について、本人に語っていただきます。
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丸に、四角に、三角に、ペケ。そういう羅列のキャンパスを覚えていますか?
抽象画を私の全てだと思っている人がいます。

私が、抽象画を描いたのは、晩年になります。きめ細やかな写実的な絵をさんざん描いたあげくの抽象画でした。それは、物事のとらえ方が、私の中でどんどん変化していったからです。

物事は、すべて、無形のモノに繋がっていると感じ始めていました。そのものは、形や色合い、存在する光の度合い、だけではなく、無形のエネルギーの波動を持っていると感じたのです。その無形のエネルギーの波動を、私は表現したい、と思い始めたのです。

その表現が、抽象画へと発展しました。
私の絵がまったく無意味で、何を表現しているのか分からない。けれども、私の絵だから、有名になったと言うのが、一般の方々の理解かも知れません。
確かに、晩年の私の絵は、何を表現しているのか分からないでしょう。
その中に、無形のモノを書きたい。ほとばしるエネルギーの波動を表したい。形には見えない何かの物体を表したい。と言う気持ちが私には、ありました。

それは私の意識する顕在意識の叫びというよりは、私の全ての意識からわき出てくる要求でした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つづく…

「読書する女」1935

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2008.12.10             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(6)

巨匠ピカソ展(6) 【気功講義|芸術と気功】 ピカソ自身による話の続きです。
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私が死後、神になれたのは、人を感動させた成果です。
私自身は、人々に生き様として良い影響を与えたとは、決して思えません。 それほど、周囲の人々にとっては、一人の人間としては、迷惑な存在であったと思っています。作品としては、良い作品を残したのですけれども、私自身は、わがままで、傲慢で、未発達 、自己主張が強くて、…そういう性格を世の中が、受け入れてくれた結果、良い作品が完成しました。

それを可能にする女性達との人間関係が存在していたからこそ、成り立っていたのです。
ですから私には、あなた方のように人のために、生きようとする精神の気高さはありませんでした。私は、ごねた生き方をしました。人に尽くす生き方ではありませんでした。やりたいことをやりたい放題にやった。その結果が、立派な作品に仕上がった、というわけです。

時代背景もあります。そういうことが許されるおおらかで、緩やかな時の流れの時代でした。私が生かされた時代の背景に恵まれていたのでしょう。私は、今後芸術を世に広める仕事の上で、世の中の発展に力を貸しますから、どうぞ皆さん、前に進んでください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つづく…

「ドラ・マールの肖像」1937

2008.12.09             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(5)

巨匠ピカソ展(5) 【気功講義|芸術と気功】 ピカソが自分の体験したこと、考えていたことを、皆さんにお話し下さるそうです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の名声に乗せて、私が体験したことの中で、いくつかのエピソードを紹介します。

芸術の善し悪しというのは、エネルギーの交換にあります。エネルギーがそこに存在して、みている者の心を揺り動かす。それは、「感動」という言葉で表されます。それは、「感動する」という言葉が当てはめられます。

感動するというのは、心を揺り動かす、魂を揺り動かす、そこにそういうエネルギーが存在しているということです。

わたしは、被写体にエネルギーを感じて、エネルギーを取り入れ、キャンバスにエネルギーを注ぎ込みました。そして良い絵を描き続けました。枯渇したエネルギーをまた、次から次へと、私の周りにいるパワフルな女性たちが、提供してくれました。私の絵はエネルギーにあふれていました。

しかし、それは、悪く言えば偏ったエネルギーに満ちていたことになります。私の絵を感銘して受け入れてくれた者達もいれば、不快に感じる人もいます。

そこに、私の偏向さ、偏屈さ、歪曲した精神があります。
私自身、決して円満な人格ではありません。私は、きわだって、しつこい、粘着気質の性格があります。そうでなければ、一つの事柄に固執して爆発的なエネルギーを注ぎ込むことが、難しかったでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つづく…

「フランソワーズの肖像」1946

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2008.12.08             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(4)

巨匠ピカソ展(4) 【気功講義|芸術と気功】 前述しました様に、ピカソは周りの女性達よりそのエネルギーを吸収して、キャンバスに自己の思いと共に描き込む作業をしてきました。

判っている長期に付き合った女性だけでも9名、短期的な女性関係は数知れずといわれています。殆どが20~30才であったようです。また付き合いはなくとも、周りを通りすがっただけでもエネルギーの移動を感じることができます。本人はその気がなかったのでしょうが、修練もしていないのに恐ろしい能力です。

1.ジェルメーヌ・ガルガーリョ
2.フェルナンド・オリヴィエ
3.エヴァ・グエル
4.ギャビー・レスピナス
5.オルガ・コクローヴァ
6.マリー=テレーズ・ヴァルテル
7.ドラ・マール
8.フランソワーズ・ジロー
9.ジャクリーヌ・ロック

この中で戸籍上で結婚をしたのは、 5.オルガと9.ジャクリーヌの二名だけですが、 オルガは精神を病み、ガンでなくなっています。ジャクリーヌは自殺。
また既にご紹介した「人形を抱くマヤ」のモデルになった娘マヤは、マリー=テレーズの娘ですが、マリーは自殺しています。エヴァは30才の若さでなくなっていますし、ピカソとオルガとの子パウロ・ピカソの子パブリートは、ピカソの葬儀後自殺しています。
パウロとてその二年後になくなっています。

芸術の為に、周りの多くのエネルギーが費やされたと言えるかも知れません。

つづく…

2008.12.07             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(3)

巨匠ピカソ展(3) 【気功講義|芸術と気功】 「絵を描くということ」について、パブロ・ピカソさんから直接お話ししていただいています。前回の続きです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その思いが動くということがなければ、なんの絵柄も発生しません。マイナスの感情であれ、プラスの感情であれ、自分の気持ちが大きく揺り動かされるという行為です。世の中には、「感動する」という言葉が溢れ過ぎていますけれども、感動というのは、感性が動くということです。嬉しいことや悲しいことばかりではなくとも、どんな思惑でも心が大きく揺さぶられて動くということが、感動です。そういう思いがあってこそ、絵筆が動きます。ただ単に、巧妙に技術が勝っていて、絵柄を移したモノは、なんらエネルギーを発しません。

しかし、そこに、自分の思いがあり、相手の思いがあり、うまく調和して、そのことがキャンパスに描けたときに、調和したエネルギーが、発生します。「被写体と描く者とが、エネルギーをやりとりする。」まさに、その両者のエネルギーがうまく調和したときにこそ良いモノがかける。その結果良い作品が描けるわけです。

本気で絵を描き続けていると、猛烈にエネルギーを使うことになります。
「ピカソは自分の描くエネルギーを、付き合っていた周囲の若い女性達から無意識のうちにもらっていた。だから、彼の周りにいた女性は、何人も早死にすることになった。」というカメ仙人の推論は、結果的に、そのようになってしまいました。今から思えば、かわいそうなことだったと思います。それも、良い作品を私が残さなければいけないという使命的なことから、そういう結末を生み出したのだと思います。

そして、常に私が彼女たちに心を揺さぶられ、大きな感動を彼女たちから受けていたということも、事実です。
 

つづく…

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。

巨匠ピカソ愛と創造の奇跡 国立新美術館~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート サントリー美術館~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館~12/14

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2008.12.06             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(2)

巨匠ピカソ展(2) 【気功講義|芸術と気功】 先回、ピカソ作「人形を抱くマヤ」について少しお話ししました。
今回は、「絵を描くということ」について、パブロ・ピカソさんから直接お話ししていただきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~

ピカソです。
唐突ですが、エネルギーのやりとりが存在しているからこそ、絵を描くということが成り立ちます。逆に言えば、絵を描くということの上には必ずといってエネルギーのやりとりが存在するのです。エネルギーのあるモノを写して描く。うつしてかく。その行為は、相手のエネルギーを自分を通じて、画面に移すという行為です。さらに、自分の情念をそこに、思い描いて描く。相手の姿、形、その形状だけではなく、相手の持っている「生々しい生き様」、「思い」―― それも自分の情念に乗せて描く、という行為です。

それは、懸命に自分の思いを描きつづけることです。思いを届け、エネルギーのほとばしるほどの思いをその画面に残す作業が、絵を描くという行為です。絵を描くという行為は、単なる移して描くということではありません。被写体から得た状況、情報、内からの情報をどれだけ感じ取って、そのあとに、キャンパスに思い(情念)を写し取るのです。まず、被写体から感動すること、感激すること、心が動くこと、ある思いを持つこと、そこから絵を描く行為が始まります。 (続く)


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今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。

巨匠ピカソ愛と創造の奇跡 国立新美術館 ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート サントリー美術館 ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館 ~12/14

2008.12.03             【気功講義|芸術と気功】

巨匠ピカソ展(1)

今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。

巨匠ピカソ愛と創造の奇跡   国立新美術館    ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート  サントリー美術館  ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館   ~12/14


これに因んでか、去る10/22、朝日新巨匠ピカソ展(1) 【気功講義|芸術と気功】聞夕刊 美の履歴書欄にピカソの「人形を抱くマヤ」について記述がありました。

横顔の輪郭なのに、片目は正面を、もう一方は斜めを向く。横向きの鼻に、鼻孔は二つ並ぶ。そして、大きな唇。ピカソは、マリー・テレーズとの間に生まれた娘を、極端にデフォルメして描いた。対象をさまざまな角度からとらえて解体し、再構成することで、本質に迫ろうとしたのだろう。ここでは、娘の姿のみならず、心理まで描き出そうとしたのかも知れない。しかしマヤが抱く人形は、何故か、ごく普通に正面から描かれている。人形には命がない、という指摘もある。だとすれば、ピカソは命あるものに興味を示し、それをデフォルメによってカンバス上に再現しようとしたと見ることも出来る。

「なぜ人形は普通なのか」と、この記者は表題で問うていますが、これに正解を与えることは、日之本元極の講座を受講している者にとっては簡単なことです。
一人の人に、五つの意識が同居することを知っていれば、芸術の見方も的を得たものになってきます。
ピカソはそのことを知らずとも、その存在を感じ取っていたのです。そして自らの魂からの語りかけに突き動かされ、生きとし生けるものの見えない真の形態を描こうとしたに違いありません。

つづく…

「人形を抱くマヤ」

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